【ヨシムラヒストリー05】九州から中央へ。カタカナ名“ヨシムラ”も使い始めた。が、苦労の連続……。の画像

九州から中央(東京・福生)へ進出してからヨシムラファミリーの結束はさらに強くなった。左からPOP夫人の直江、POP、長女・南海子。不二雄(右端)は高校生で福岡に残っていたが、長い休みにはこうして上京し父を手伝った。福生は横田基地があり、米兵のお客も多かった。

【ヨシムラヒストリー05】九州から中央へ。カタカナ名“ヨシムラ”も使い始めた。が、苦労の連続……。

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2019年3月28日

1965~1966 YOSHIMURA COMPETITION MOTORS STARTS UP

1965年、POPはついに大きな決断を下した。数年前から考えていたことではあったが、九州を離れ中央へ移転することにしたのだ。1954年、バイクの修理屋吉村モータースから始まり、雁の巣でのロードレースで、その仕事はチューニングへと変わっていき、ついに拠点を日本の中央へ移すことにしたのだ。

吉村家は高校受験を控えていた長男・不二雄を残し、4月東京郊外のアメリカ空軍横田基地のある福生へ引っ越した。東京といっても福生は、福岡・雑餉隈よりも田舎な感じだった。そして“YOSHIMURA COMPETITION MOTORS”と英文字の看板を掲げ、“ヨシムラ”のカタカナ名も使い始めた。

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福生に移転してからYOSHIMURA COMPETITION MOTORSと英字の看板をかかげ、カタカナ名“ヨシムラ”も使い始めた。そして約1年で秋川へ自社工場兼自宅を建てた(写真はその秋川工場)。

この数年は、ヨシムラやバイクレースばかりではなく、日本モータースポーツ界にとって大きな変革が起こっていた。1962年に鈴鹿サーキット(6㎞)、1965年に船橋サーキット(3.1㎞)、1966年に富士スピードウェイ(6㎞)がそれぞれオープン。日本も完全舗装のクローズドコース時代を迎え、浅間、雁の巣など各地の基地飛行場でのレースは終わりを告げようとしていた。

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福生は基地の町だ。横田基地があり、すぐ近くにはジョンソン(入間)基地があった。そして最も身近で簡単に参加できるのがドラッグレーシングだった。POPのお客ももちろんヨシムラチューンCB72/77で参戦。ややこしい規則はない。ここでもON ANY SUNDAY。

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1966年にオープンした富士スピードウェイ(国際格式)。当時は6㎞コースで、1.7㎞のメインストレート、30度バンクは勇気とパワーが試されるヨシムラ向きのレイアウトだった。写真手前がグランドスタンド前のメインストレートで、奥に見えるのがヘアピン。

振り返ると1962年には、POPの熱意と助力で地元・福岡の雁の巣飛行場で第5回全日本クラブマンレース(MCFAJ:全日本モーターサイクルクラブマン連盟とPOP率いるKTA:九州タイミングアソシエーションが共催)が開催され、1963年には完成した鈴鹿で、日本で初めて世界GPが行われた。1964年には日本で初の本格的な耐久ロードレース、鈴鹿18時間が開催され、POP率いる九州チーム(ヨシムラマシン)がホンダ研究所チームを抑えて優勝を果たした。

そして1965年日本GPで併催された国内ジュニアクラスで走ったヨシムラCB72を見た本田宗一郎氏は、その速さに驚き「1度テストさせてもらえ」となり、ホンダの和光研究所・二輪部門でパワー測定などが行われた。そのヨシムラCBにはPOPが雁の巣で育て、ホンダの田中健二郎学校を経て実力が認められた高武富久美と、関西の逸材、和田将宏が乗っていた。POPは尊敬する宗一郎氏からの依頼だったし、より良いバイク開発の手助けになればと快く承諾した。

が、ホンダ関係者の中には街のバイク屋ごときに、とこれを快しとしない者もいた。何しろヨシムラCB72のパワーは、研究所CBを遥かに上回り、想定外の馬力が計測された。STDのCB72が24馬力、研究所のエンジンが27馬力以上だったのに対して、ヨシムラチューンは何と32馬力以上も出ていたのだ。

鈴鹿18時間の時点でヨシムラCB72は、ホンダの市販レーサーCR72(CBはSOHCだが、これはDOHC)や2ストのヤマハYDSと同等のパワーを出していて、鈴鹿18時間は耐久性を考慮してディチューンしていたほどだった。そのパワー差を知った宗一郎氏が社員に「2週間でヨシムラを超えろ」とはっぱをかけた。

宗一郎氏は負けず嫌いで熱い。ヨシムラを快しとしないのではなく、ただ社員にゲキを飛ばしただけなのだが、ここからホンダとヨシムラの長く続く確執が生まれてしまった。研究所エンジンは結局ヨシムラを超えたものの、町のバイク屋とメーカーが比較されたこと自体屈辱だったのだ。

けれども、メーカーは、設計はするが、完成したバイクをチューニングするという概念がなかったことも事実で、このことは後年AMAスーパーバイクに参戦した頃も、現地のアメリカンホンダと日本側との間で同じような事件があった(アメホン独自でチューンしたフレディ・スペンサー用1982年型CB750Fが想像を遥かに超える約150馬力を発生していた)。

POPは鈴鹿18時間優勝後に、モーターサイクリスト((MC誌)を発行する八重洲出版社長でMCFAJ副会長でもあった酒井文人氏からCB72/77のチューニングに関する記事の執筆を依頼された。それが“私のチューニングアップ(1965年2~4月号)”で、後に“4サイクルのチューニング―CBチューニング(1967年4~8月号)”も執筆した。

この記事は大反響を呼び、全国にPOPとヨシムラの名を知らしめることとなった。エンジン本体のチューニングやキャブの選択方法など、レースはもちろんストリート向けにも、以後現在に至るまで4ストロークチューニングの基本が記されていた。特にハイカム製作やバルブタイミングの設定などを含むシリンダーヘッド周りのイジり方は、その頃の日本では画期的で、CBを製作したホンダ社内でも愛読されるなど、CB72/77チューニングのバイブルとされた(これは現在でも愛好家の間で貴重な資料とされている)。

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極力フリクションを減らし、吸排気効率を上げる。そのためパーツはとにかくバフがけされた。現在では表面がツルツル過ぎると流体が張り付く抵抗が増すと認識されているが、その頃は鏡面加工が最高とされていたからだ。作業すれば全身真っ白。飛行機乗りだったPOPには単眼ゴーグルが似合う。

この記事の反響もあって、ヨシムラへチューニング依頼が殺到した。POPも家族も従業員も朝7時に起き、夜中まで働いた。何しろカムはPOP自らが手削りだ。まだ、カム研削機やエンジンダイナモなどはなかったから、グラインダーやオイルストーンで削り・仕上げ、ダイアルゲージと360分度器で計測・測定し、また削る、を繰り返す。その加減と方向性はPOPの勘と経験と理論による。

他にも吸排気効率を高め、フリクションを低減するために、ポート、バルブ、クランクなどは鏡のように研磨され、ミッションなども磨かれた。エンジンばかりではない。剛性アップのため、スイングアームを補強し、左右フロントフォーク間を繋ぐスタビライザーを製作するなど、車体チューニングも行っていた。

車体チューニングはすでに雁の巣時代から行っていて、軽量化のため強度が必要ない部分はドリルホールだらけだった(ヨシムラのドリルホールはZやGS時代に有名になったが)。エンジンばかりではなく車体もトータルでチューニングするコンストラクターとしての姿は現在まで続いているが、これは世界的にも珍しい存在だ。海外の多くのチューナーやパーツメーカーは、エンジン、カム、ピストンなど、その専門屋であることが普通だからだ。

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ピットはいつだって戦場だった。最後の最後までモアパワー、ベタードライバビリティを追及するPOP。POPチューンのCB72 は最終的には40馬力近くまでパワーアップした。その反面、ブレーキが苦しくなった。当然レース用ツーリーディング(フロント)に交換はしたが……。マフラーは手曲げの2本出しメガホン。キャブは旧ケーヒンCR。

こうしたPOPの手法は見事に実走で証明された。ただ、高性能を引き出したものの、手間と時間は途方もなくかかった。それに、どんなお客にも手は抜かない。こんなハイチューンなヨシムラCBを駆り、高武は1965年全日本ジュニアチャンピオンに輝いた。和田も速さは2スト勢を追い回すほどで、注目される逸材だった。

戦績と評判は素晴らしかったが、やっかいで不快な問題が大きくなっていった。ホンダからのパーツが入りにくくなったのだ(これは、その時の4輪の車検制度など法的な在り方が問題を大きくした)。ホンダ内部の誰かがおもしろくないと思い、頼んだパーツ入手が滞る。そこで何かの手違いがあるのかと思い、POPは1度宗一郎氏に直訴したことがあった。宗一郎氏は事情を知らず、また部下をどやし付けてしまったらしく、これがさらに状況を悪くさせてしまった。そして1965年いっぱいでホンダとの関係は消滅。ホンダはレース用のパーツ開発、パーツ販売、サービスを行う会社RSC(現在のHRCに至る)を設立した。

この頃、POPのCB72チューニングに感銘を受けた2人の若者がヨシムラを訪れた。1人は1965年に愛媛からホンダS600に布団を積んでやって来た松浦賢。もう1人は1966年に神戸からCB72で自走して来た森脇護(高知出身)。2人はヨシムラ卒業後に日本モータースポーツを牽引していく世界屈指のチューナー/コンストラクターになるのだが……。

そして1966年、ヨシムラは借家だった福生から、秋川に移転。秋川は完全な自社工場兼自宅。借金はしたが、自分の城。それに人家が遠く、音を気にしないで済む。バイクだけでなく4輪の仕事も増え、POPとヨシムラは、日本モータースポーツ界でさらに大きな存在となっていった。

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富士スピードウェイまでは秋川から約2時間で行けた。まさにホームコース。この頃ヨシムラのバイクレースは西多摩スピードクラブの面々が中心。マシンを積み込んだトラックは千葉のお客さん(チーム員)伊藤さんのもの。その前で南海子(長女)、直江(POP夫人)、由美子(次女)。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748
電話/0570-00-1954
営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。