チャンピオンナンバー#1を付けて全日本TT-F1を走る辻本。デイトナから帰国後、意外にもTT-F3(GSX-R400)が気に入っていた。「コーナーに入っていく姿勢がイイんだよね。イイ感じで入っていけるから、上手く向きが変わる。もちろんTT-F1も楽しいんだけど」と辻本。圧倒的な支配力で、全日本を駆け抜けていった。

【ヨシムラヒストリー23】2つの若き才能:辻本の躍進と、ケビンの苦悩

1986 The Wild Ones

1986年3月9日のデイトナ200マイルの後、辻本聡は全日本ロードレースに復帰した。全日本第1戦・鈴鹿2&4(3月9日、TT-F1のみ開催)をデイトナ遠征にために欠場した辻本だったが、第3戦・菅生(4月6日・TT-F1の2戦目、TT-F3の初戦)ではTT-F1とTT-F3両クラスともポール・トゥ・ウィンを飾った。さらにヨシムラ新加入の宮崎祥司が、2位入賞。デイトナ遠征で成長した辻本は、他を圧倒した。誰もいないかのように、見えないライバルと争いながら、さらなる高みを目指して、タイヤをスライドさせワイドオープンで“ニッポン”を駆け抜けて行った。

ところが……第4戦・鈴鹿(4月20日)のTT-F3予選の逆バンクで、それは起こってしまった。前後とも大きくスライドさせた辻本は、かまわず左から右へ切り返したが……転倒! ヨシムラGSX-R400のサスペンションもフレームも、辻本のライディングに耐えきれず、破綻してしまったのだ。この転倒で、辻本は左足首を骨折。TT-F3もTT-F1も欠場した。

「転倒しなければ2分22秒台は出せた、絶対に」(辻本)

辻本が転倒前に出した2分23秒295は、ポールポジションタイムで、2番手(ホンダRVF400)に0.349秒の差を付けていたし、GP250でも2番手に相当したラップタイムだった(GP250のポールポジションタイムは2分22秒568:ヤマハYZR250)。

ヨシムラスズキGSX-R750のTT-F1鈴鹿8耐仕様は、ハーフカウル。もちろんアンダーカウルを外してだけではなく、アンダーカウルを取り付けるためのオスメスの段差やファスナーがないなど、専用のハーフカウルだ。デュプレックスサイクロンマフラーのチャンバー取り付け位置が、1986年型TT-F1ではエキパイ前から後ろへ変更になった。エキパイはチタン製で、サイレンサーはアルミ製だ。キャブはミクニTMのマグネシウム製(フラットバルブ・強制開閉式)で、デイトナ時のφ36mmからφ38mmに拡大されている。タイヤは、前後17インチのミシュランラジアル(F:12/60-17、R:18/67-17)。

第6戦・菅生(TT-F1の4戦目)も辻本は欠場したが、後輩の大島行弥(この年ヨシムラ入り)がTT-F1でポール・トゥ・ウィンを飾った。もちろん大島は全日本A級初優勝。2位は宮崎で、1986年シーズン2度目のヨシムラ1-2フィニッシュだった。

第7戦・鈴鹿200km・TT-F1で辻本は復帰した。ただし、左足首は万全でなく、十分に曲がらない。ビジネスバイクのような蹴り返しが付いたチェンジペダルを装着し、さらに十分にカウルにしまい切れないつま先のために、小さな補助カウルも追加された。辻本は予選3番手だった。ポールポジションは宮崎が奪取。大島も5番手。ヨシムラ初の3台体制は成功したかに見えた。

しかし肝心の決勝、なんとウォーミングアップランで宮崎が転倒。決勝を走れず、ポールポジションをふいにしてしまった。さらに16ラップ目には大島がスプーンカーブで転倒・リタイアしてしまった。

こうしてヨシムラの希望は辻本に託された。辻本は、トップを走っていた宮城光(モリワキCBX750)を22ラップ目にパスしトップに立つと、徐々に引き離して独走。34ラップを走り切った。2人の差は、体力とタイヤだった。復帰戦の辻本の体力は万全でこそなかったが、リハビリのおかげでかえってトレーニングに集中できたのが功を奏した。タイヤは辻本がラジアル(ミシュラン)、宮城がバイアス(ダンロップ)で、路面温度が高い長丁場では完全にラジアルが適していた。鈴鹿8耐前に200kmという長丁場を試せたのは良かった。

続く第8戦・筑波は、予選からポールポジション辻本、2番手大島で、決勝もそのまま1-2フィニッシュ。全日本では辻本とヨシムラGSX-R750の前に敵はいない。けれども鈴鹿8耐では、意外な展開が待ち受けていた。

世界耐久選手権第3戦・鈴鹿8耐(第9回大会・7月27日決勝)で、辻本/ケビン・シュワンツは#12を、大島/宮崎は#30を走らせた。ヨシムラGSX-R750は、デイトナ参戦時(AMAスーパーバイク仕様)から、デュプレックスサイクロンマフラーの#1と#2、#3と#4を繫ぐチャンバーが、エキパイの前側から後ろ側に変更されていた。

デイトナで問題となったコンロッドは、デイトナ後にAMA仕様も全日本仕様(鈴鹿8耐仕様も含めて)も、キットパーツからキャリロ製に変更された。オイルクーラーも大型化された。鈴鹿8耐仕様は、灼熱の暑さ対策からフルカウルではなく、アンダーカウルを取り外したハーフカウルとした。また、辻本の左足首が完治せず、引き続き蹴り返しの付いたシーソー式チェンジペダルを使用した。

1986年鈴鹿8耐のためにヨシムラは、4台のGSX-R750を用意した。本番マシン+Tマシンを2チーム分:#12、#12T:辻本/K・シュワンツ、#30、#30T:大島/宮崎のコンプリートマシン4台だ。タイヤはトラベル(移動)用で、フロントにはスリック、レイン(2種類)、インターミディエイトを履いている。

#12辻本/K・シュワンツは、辻本が出した2分21秒840で予選6番手だった。ポールポジションは、2分18秒923のワイン・ガードナー(ホンダRVF750/ドミニク・サロン)。2番手は、2分20秒190のケニー・ロバーツ(ヤマハYZF750/マイク・ボールドウィン)で、辻本は、平忠彦(YZF750/クリスチャン・サロン)の2分21秒839に次ぐ日本人2番手だった。平に0.001秒届かなかったことより、W・ガードナー、K・ロバーツ、C・サロン、ケビン・マギー(ヤマハFZ750/マイケル・ドーソン)、マルコム・キャンベル(RVF750/木下恵司)に届かなかったことが悔しかった。予選ではW・ガードナーとK・ロバーツをマークし、2人のどちらかがピットアウトすれば辻本が追走する徹底振りだったが……。

ただ、水冷のライバルマシンが速かっただけではなく、空油冷のGSX-R750が、鈴鹿の真夏の暑さから熱ダレしてパワーダウンしていたことも事実だった。熱ダレ問題は1985年鈴鹿8耐から明らかになっていたが、ここにきて深刻になり、以後油冷機は発熱との戦いになっていく。

予選で辻本は、W・ガードナーを後追いしようとしたが、後ろに付けるとガードナーは本気で走らない。GPライダーは厳しい。敵に手の内を見せない。言い換えればW・ガードナーが、辻本をライバルだと認めていたことになる。決勝では、C・サロンと静かだが、非常にレベルの高い戦いをくり広げた。抜けそうで、抜けないC・サロン。GPライダーの精度の高いライディングを感じた。「今の辻本とGSX-R750なら、GPライダーとファクトリーマシンが相手でも勝てる」(不二雄)。

日曜日の鈴鹿8耐の決勝を前に、土曜日に行われた鈴鹿4耐で、POPとヨシムラスタッフに嬉しいプレゼントがあった。ヨシムラのマイナーチーム的存在であるミラージュ関東の高吉克朗/石上均が優勝したのだ。マシンは、もちろんヨシムラチューンのGSX-R400。POPは、自ら2人を出迎えて喜んだ。

鈴鹿8耐決勝では、W・ガードナー/D・サロンが別格の速さを見せ独走。2位以下をK・ロバーツ/M・ボールドウィン、平/C・サロン、辻本/K・シュワンツが争う展開となった。ところが、K・シュワンツは1回目のスティントの1時間30分過ぎ、37ラップで突然ピットインしてきてしまった。チェンジペダルのリンクが折れたのだ(全日本では1度も壊れていなかったが)。シーソー式ペダルが負担になったのだろうか。交換作業に約5分間。トップから2ラップダウン。21位まで落ちてしまった。

思わぬ展開はそれだけではなかった。103ラップで平/C・サロン、130ラップでK・ロバーツ/M・ボールドウィンがリタイアしたのだ。ともに優勝候補だったヤマハファクトリー勢の自滅だった。これによってトップはW・ガードナー/D・サロンで変わらないが、2位M・ドーソン/K・マギー、それを追ってぐんぐん順位を挽回してきた辻本/K・シュワンツという展開となった。

ヨシムラマシンの鈴鹿8耐仕様は、この1986年型からヘッドライトがブルーになった(右1灯式)。そのブルーライトが点灯してからも、K・シュワンツのペースは上がらなかった。8時間終了(午後7時30分)でチェッカーフラッグが振られるが、タイミング悪く3位、K・シュワンツが2位のM・ドーソン/K・マギーより先にそのチェッカーフラッグを受けてしまった。リザルトは3位#12ヨシムラ194ラップ・8時間00分07秒246、2位マールボロヤマハ・ディーラーチーム(オーストラリア)195ラップ・8時間01分57秒584と、#12ヨシムラの1ラップダウンになってしまったのだ。優勝したチームHRCは197ラップだった。

残り2時間弱。K・シュワンツから辻本へ交代。3位辻本は、2位のK・マギーとの差を1ラップごとに約3秒詰め始めた。このペースでいけば、逆転できる……。そして約1時間後、K・シュワンツに交代すると、差が縮まらない。最終局面にきてK・シュワンツは疲労困憊。元々鈴鹿8耐ウィークに入ってからK・シュワンツは精彩がなく、体力不足(トレーニング不足)なのは明らかだった。一方辻本は、左足首の怪我からのリハビリもあって、かえってトレーニングに力を注ぎ、フィジカルもメンタルも以前より充実していた。POPは「辻本をずっと走らせろぉ~」と怒鳴っていて、スタッフはなだめるのに苦労していた。

結局、2位には届かず辻本/K・シュワンツは3位に終わったが、K・シュワンツは1985年の2位(グレーム・クロスビー)に続いて2年連続で表彰台に上がった。辻本は表彰台から見た景色を忘れなかった。コースを埋め尽くす観客、巨大なグランドスタンド……。「必ず一番高い所から、この景色を見てやる!!」(辻本)

鈴鹿8耐後、辻本はTT-F1で第9戦・筑波、第10戦・菅生、最終戦・日本GP(鈴鹿)の3戦を3連勝(全日本は鈴鹿200kmから通算5連勝)して、見事2年連続で全日本TT-F1チャンピオンに輝いた。

全日本最終戦・日本GP(鈴鹿9月14日)の本表彰式後の記念写真(本表彰式は、表彰台で行われる仮表彰式とは別にサーキットホテルのホールで行われていた)。後列左から3人目が不二雄、ちょっと顔を出している岡本メカ、その右にTT-F1の全日本V2Tシャツを着てトロフィーを持つ辻本(TT-F3ランキング13位)、竹中メカ、満面の笑みのPOP、右に加藤由美子専務。前列左から浅川チーフメカ、宮崎(TT-F1ランキング11位、TT-F3ランキング5位)、大島(TT-F1ランキング2位、TT-F3ランキング9位)、今野メカの膝に座っているのは、11月に11歳になろうとしている加藤陽平(現レーシングチームディレクター)。

一方K・シュワンツは、結果はともかく、飛躍のための経験を積むシーズンとなった。まず、4月19日、20日にマロリーパーク(イギリス)で行われたイベントレース“レース・オブ・ザ・イヤー”でヨーロッパデビューを果たす。マシンは、スズキの大先輩、1976/1977年GP500世界チャンピオンのバリー・シーンが用意した(1984年にB・シーン自身が使用したハリス製鉄フレームに1986年型RGΓスクエア4エンジンを搭載)。両日とも2位と大健闘。さらに世界選手権GP500に挑戦。ダッチTT(RG500ΓでTT-F1にも参戦)、ベルギーGP(10位で初ポイント)、サンマリノGPを走った。B・シーンもスズキも、K・シュワンツをGP500の次期エースとして期待していた。ただAMAスーパーバイクでは、油冷GSX-R750を得たというのに1986年シーズンは未勝利でランキング7位に終わった。

こうして1986年が終わり、いよいよ2人にとって期待の1987年が始まろうとしていた。

ヨシムラジャパン

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住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

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定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。