【ヨシムラヒストリー21】1986年デイトナ前編「31度バンクのサムライ」

掲載日:2022年10月21日   スポーツ&ツアラー&ネイキッド特集記事    

1986年デイトナの夕方、ピット裏をスズキのモペット“スージー”で移動する不二雄。タンデムしているのは、ライダーの辻本。デイトナ・バイク・ウィークでは、本コースとピットロードの間にスーパークロスコースが特設されるので、スプリンクラーで水撒きしているところ。

【ヨシムラヒストリー21】1986年デイトナ前編「31度バンクのサムライ」

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、木引繁雄、磯部孝夫、桜井健雄
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2022年10月21日

1985~1986 Daytona! part 1

1985年全日本ロードレース選手権の最終戦、日本GP鈴鹿(第11戦9月8日)TT-F1クラス。ヨシムラの辻本聡は予選2番手から決勝2位でゴールし、国際A級1年目にして見事チャンピオンを獲得した。チームメイトで先輩の喜多祥介も3位に入った。

優勝は、スポット参戦したホンダ(RVF750)のワイン・ガードナーだった。W・ガードナーはこの年、鈴鹿で開催された全日本ロードレースに3戦出場し、その全てにおいてTT-F1、GP500にダブルエントリー。3戦6勝(全勝)をマークした。さすが現役の世界グランプリライダーだった。当時グランプリで最先端のテクニックだったパワースライドとラジアルタイヤの使い方を、自らのライディングでもって全日本ライダーに示したのだ。

辻本はTT-F1で全8戦中3勝してチャンピオン、TT-F3でランキング3位を得た。一方喜多は、TT-F1で1勝、ランキング4位。TT-F3ではそれまで全勝のホンダRVF400勢(山本陽一と徳野政樹)に、最終戦日本GPで一矢を報いて9戦1勝、ランキング8位。本当にRVF400が絶対的な存在だっただけに、この勝利は貴重な1勝となった。

1985年シーズンが始まる前、POP(吉村秀雄)は辻本に「チャンピオンを獲ったらデイトナへ連れて行ってやる」と言った。POPにしてみれば、ルーキーとの他愛もない会話だったかもしれないが、辻本は忘れていなかった。デイトナは辻本にとって明確な目標だったのだ。

POPは、自分が言ったのだから後に引けない。こうして辻本を1986年3月のAMA開幕戦デイトナへ遠征させることが決まった。

実はヨシムラはこの最終戦に新兵器を投入していた。辻本用TT-F1仕様GSX-R750のマフラーに“デュプレックスサイクロン”を使ったのだ。並列4気筒の爆発順番に#1→#2→#4→#3と並べるサイクロン集合はそのままに、筒状のチャンバーで#1と#2を、#4と#3を連結させたのだ。こうすることで、4-2-1集合のような低中速トルクと、4-1サイクロン集合の高回転域での伸びとパワーを同時に得ることができるのだ。

AMAスーパーバイク仕様のGSX-R750にも、デュプレックスサイクロンマフラーが装着された。#1-2と#3-4をつなぐ筒形のチャンバーは、エキパイの前側にある。この後、市販型も含めてエンジン側に装着するように変更された。キャブはマグネシウムボディの強制開閉式ミクニTMφ36mm(フラットバルブ)で、非売品のファクトリーパーツだ。

こちらが市販型のデュプレックスサイクロン。見ての通り、チャンバーはエンジン側だ。

不二雄はかねてからサイクロン集合には一長一短あるとして、USヨシムラ(ヨシムラR&Dオブ・アメリカ)で参戦するAMAスーパーバイクのGS1000SやGSX1000Sには通常の#2→#1→#4→#3集合を使っていた。一方、日本に戻ったPOPはTT-F1仕様のGSX1000(1983年型ヨシムラモリワキGSX1000も含む)や1984年型GSX750E、世界耐久仕様のGS1000Rには“サイクロン”を使っていた。このあたりにチューナーとしての親子の違いがある(POPの意地もあるかもしれない)。

辻本が全日本ロードレース初優勝時に一度だけ採用した4-2-1集合の件もあり、POPと不二雄は、“サイクロン”にチャンバーを加えて“デュプレックスサイクロン”とすることで答えを出した。2ストロークがチャンバーの膨らみ具合で低中回転域をコントロールするのに似ているし、現代のショートマフラーでは、エンジン下などに相当な容量の拡張室=チャンバーを設けるのが定番だが、これらとも共通する理屈だ。

1983年末に帰国した不二雄は、1985年シーズンから全日本チームの監督を任されていた。1971年に渡米して以来、途中何回かは一時帰国したが、今回は完全帰国だった。帰国後、約1年間は日本に馴染むための慣らし運転だった。長いアメリカ生活で、感覚的に“アメリカ人”になっていたため、日本の生活習慣・人間関係に慣れる必要があったからだ。

そしてPOPが肺を患い、会社経営でもヨシムラの実権を徐々に不二雄に移行しようとしていた。USヨシムラは、不二雄が社長を継続しつつ、長年POPや不二雄の右腕として手腕を振るっていた渡部末広が副社長として“アメリカのボス”的役割を果たしていくことになった。

デイトナにあるヨシムラのガレージはまるで戦場のような有様だった。中央に立っているのが渡部末広。デイトナは夜8時にロックアウトされるので(防犯を理由に夜間立ち入り禁止)、ヨシムラは宿泊しているホリデーインにマシンごと持ち帰り、徹夜で整備を続けた。

辻本は、11月5日にラグナセカ(中部カリフォルニア)で行われたGSX-R750の発表会に参加するため、初めて渡米した。北米ではGSX-R750はヨーロッパや日本より1年遅れの発売となり、新車発表会がこのタイミングになったのだ。AMAスーパーバイクへの参戦は1986年シーズンで、開幕戦デイトナが文字通りAMAへのGSX-R750のデビュー戦となった。

ラグナセカのGSX-R750発表会後、ケビン・シュワンツと辻本は11月10日にウイロースプリングス(南カリフォルニア)で行われたAFM West Coastスーパーバイクシリーズの最終戦に参戦した。メインレースであるスーパーバイクで、新型油冷GSX-R750に乗ったK・シュワンツは軽く優勝。一方、辻本は空冷GS700(実質GSX750と同じ)のヨシムラスーパーバイク仕様(スコット・グレイのマシン)で、750スーパーストリートレースに参戦し、トップでチェッカーフラッグを受けたが、STDのジェネレーターを装備していなかったためレギュレーション違反で失格となってしまった。また、オープンGPクラスにも出走した辻本は後方から追い上げたが、ラップ数が足りず(スーパーバイクでさえ8ラップだ)表彰台には届かなかった。こうして辻本は、アメリカでの初レースを終えた。

辻本は一度帰国し、わずか1週間後に再び渡米した。デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ(フロリダ州)で行われる事前テストがあるからだ。もちろんこれは、1986年3月に開催される全米最大のビッグレース“デイトナ200マイル”に向けてのテストだ。

立ちはだかる東西の31度バンク、グランドスタンド前の18度バンクから、カントが無くまったくフラットなインフィールドに飛び込む。滑りやすいサーフェイス。超高速セクションが全体の約70%を占める難コースを、初めて走った辻本だったが、意外にも気に入っていた。

ハイスピード大歓迎、パワースライドもオモシロイ。ラップタイムも悪くない。そしてこの辻本のデイトナチャレンジに、人一倍強い思いを持っていた人物がいた。POPの次女・由美子だ。由美子の夫・故加藤昇平は1978年にデイトナ・スーパーバイク(50マイル)にGS750/944で挑戦し、決勝で一時トップを走るが、2位走行中にCDIが壊れてリタイアしていた。この時に着ていたのが、“日の丸”ツナギだった。白ベースに、胸と背中に日の丸をデザインしたもので(ヨシムラのカタカナロゴも入る)、デイトナ1戦だけの特別な1着だった。辻本は昇平以来、ヨシムラからデイトナに挑戦する2人目の日本人なのだ。そんな思いもあって2着目の“日の丸”ツナギ(クシタニ製)を辻本に託した。

#604を付け準備万端な辻本のGSX-750。AMAのゼッケンは、レギュラーメンバーが2桁(ロードレースはダートトラックとは別。#34 K・シュワンツなど)、100番台がAMAメンバーだが、現在はロードレースのレギュラーメンバーではないライダー(#129 ジェイ・スプリングスティーンなど)、600番台はAMAライセンスを持たない外国籍ライダーと決められていた(#604 辻本、#633 コーク・バリントンなど)。

1985年からデイトナ200マイルはそれまでのUSフォーミュラ1(2ストローク750cc、4ストローク1025cc)からスーパーバイクに移行していて、この1986年大会は2年目となる。やはりアメリカは2ストロークより4ストロークが好きで、市販モデルに直結したスーパーバイクを主役とするのは当たり前の流れだった。そして3月のデイトナ・スーパーバイクは1975から1978年は50マイル、1979から1984年は100マイル、1985年以降は200マイルと、距離を伸ばしてきた。200マイルになると、途中2回のピットイン(2回の燃料補給と、内1回のリアタイヤ交換)が必要になる。

こうしてスプリント耐久的な超高速の戦いが、辻本とGSX-R750を待ち受けていた。しかし、あれほどたくさんの強敵が出場してくるとは、誰も想像していなかった。

日の丸にヨシムラ本社の社員・スタッフが寄せ書きをして、デイトナのガレージの壁に張り付けた。POPは「大空の侍=サーキットの侍」と記した。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。

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