1982年AMAシリーズ終了後、ヨシムラは地元南カリフォルニアのAFM主催の11月28日ウイロースプリングス、12月10日リバーサイドの2戦に、AMA仕様のGSX1000SZカタナを参戦させた(#34もW・クーリー車そのままだ)。不二雄(中、サングラス)は、ライダーに若手NO.1で地元のF・マーケルを起用(左。この時点で20歳)。F・マーケルはその後アメリカンホンダ入りし、1984~1986年AMAスーパーバイクチャンピオンを獲得(ホンダVF750F・VFR750F)、さらに1988年から始まった世界選手権スーパーバイクで、1988、1989年世界チャンピオン(ホンダRC30)に輝いた。

【ヨシムラヒストリー18】2バルブGSから4バルブGSXカタナへ

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、Cycle World、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2022年2月18日

152hp!! Too Hot 4-Valve KATANA

1981年AMA開幕戦デイトナスーパーバイクは、ウエス・クーリーとグレーム・クロスビーの1-2フィニッシュという最高のリザルトだった。けれども肝心のAMAスーパーバイクシリーズは、GS1000S(φ70.9×64.8mm、1023cc)で戦うW・クーリーが、第2戦以降USカワサキ(KZ1000J)のエディ・ローソンとアメリカンホンダ(CB900F)のフレディ・スペンサーの前に、1勝も上げられなかった。結果は4勝のE・ローソンが自身初のチャンピオンを獲得し、ランキング2位にF・スペンサー(3勝)。1勝しかできなかったW・クーリーはランキング3位に甘んじた。結局、このシーズンは、この3人しか勝てなかった。

鈴鹿8耐は、鉄ダブルクレードルフレーム+アルミスイングアーム+リアモノショック(ショックユニットの上下マウントともフレームではなくスイングアームにあるフルフロータータイプ)の新型車体に、GS1000エンジンを搭載したニューマシンで、G・クロスビー/W・クーリーの最強コンビで臨んだ。だが、58ラップ目に最終コーナーでエンジンブロー。G・クロスビーはそのままフィニッシュライン越え、ピットウォールにマシンを寄せてヨシムラスタッフに向かって何かを叫び、そしてピットロードを逆走させた。POPはシリンダーから溢れるオイルを見た瞬間リタイアを決断した(正式結果58ラップ。原因はクランクシャフト破損)。

1981年鈴鹿8耐の主役はG・クロスビー(右)ではなく、森脇護がオーストラリアで発掘してきた原石、W・ガードナーだった。予選でG・クロスビーは全力でアタックしたが、1.11秒もW・ガードナーに届かなかった。負けはしたが、POP(左)は2人の争いを楽しそうに見ていた。1978年、モリワキでデビューした新人G・クロスビー(ニュージーランド)も、ヨシムラのW・クーリーやM・ボールドウィンに対して同じようにアタックしていたのだから。

1981年鈴鹿8耐で注目を集めたのは、ヨシムラではなくファミリーのモリワキだった。革新的なアルミダブルクレードルフレーム+2本サスのモリワキモンスター(Z1000Jエンジン)を駆った、オーストラリアからやって来た新人ワイン・ガードナーが、2分14秒76のTT-F1レコードでポールポジションを獲得したのだ。従来のTT-F1レコードは2分16秒24(木山賢悟・ホンダRS1000)だったから、1秒48も短縮した。驚異的だった。G・クロスビーも発奮してアタックしたが、2分15秒75止まりだった。鈴鹿の最速レコードは高井幾次郎がヤマハYZR500で出した2分13秒65だったから、その差1秒11。GP500マシンに、コンストラクターがフレームを製作し、4ストロークの市販車エンジンを搭載したTT-F1マシンで迫ったのだ。

森脇護は歓喜のあまり涙ぐみ、POPはW・ガードナーに向かって叫んでいた。

「You are fucking fast. Go back home!」

最初は、どこの老人が汚い言葉で叫んでいるのか、と思ったW・ガードナーだったが、その声の主がPOPだとわかると、大笑いしたのだった。そのW・ガードナーは、60ラップ目のスプーンカーブで転倒、リタイアしてしまった。結局、この1981年鈴鹿8耐で優勝したのは、ホンダRS1000に乗ったマイク・ボールドウィン/デビッド・アルダナだった(ホンダフランスからエントリー。2人ともヨシムラに何かと所縁のあるライダーだ)。

1981年11月22日は、ヨシムラファミリーにとって忘れられない悲しい日となった。POPの次女由美子の夫(加藤陽平レースディレクターの父)、加藤昇平がスズキ竜洋テストコースでの事故で、帰らぬ人となったのだ。その日はGS1000Rのテストで、高速コーナーで転倒したのだ。ただ転倒による骨折などはなく、何とコース脇の用水路に溜まった水による溺死だった。

妻の由美子は言葉もなく、そのときの記憶すら飛んでいた。POPはテストに立ち会えなかったことを悔やみ、責任を感じ、一時はレース活動を止めようかと思った……が、「あんなにいい男が死ぬなんて……もし、止めたら昇平の意志は、どうなるんだろう……」と。乗り越えるしかないのだ。

AMA仕様GSX1000SZカタナは、フロントフォークがKYB製アンチノーズダイブ機構付きφ40mmで、リアがレイダウンマウント(通称カチアゲ。車高もアップ)のFOX製。スイングアームはアルミ角断面で、下側にスタビライザーを持つ。キャブはケーヒンCR(デイトナ時点)。マフラーは通常タイプの4-1集合管で、サイレンサーはアルミ。

1982年、DOHC2バルブのGS1000に替わってDOHC4バルブのGSX1000S/SZカタナが投入された。TT-F1、AMAスーパーバイクのホモロゲーションモデルで、φ72×66mm、1075㏄のGSX1100Sカタナ/1100Eに対して、φ69.4×66mm、998ccとGSX1000S(欧州向けVMキャブ)/1000SZ(北米向けSUキャブ)カタナはボアダウンされていた。ただし、EWC(耐久世界選手権)を戦うスズキフランス(現SERT=スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)には、信頼性から2バルブのGS1000ユニットを供給する(もちろんヨシムラチューンだ)。

4バルブGSXカタナは、2バルブGSと比較して最高出力で上回っていた。だが、問題も多かった。発熱、熱ひずみ、ピストン破損……。それでも1982年AMA開幕戦デイトナ前には、約145psまで引き上げた(2バルブGSより+約10ps)。が、デイトナで4バルブGSXカタナは、トラブル続きだった。W・クーリーのカタナは、2、3ラップするとピストン焼き付きを起こし、W・クーリーは2バルブのGS1000Sに乗り換えて予選に出るしかなかった。一方デビッド・アルダナのカタナは、予選に出走したものの、エンジンブロー。結局、決勝への出走を断念することになってしまった。

1982年3月、デイトナ。グランドスタンド前の18度バンクからインフィールドへ向かうターン1を行く4バルブGSX1000SZカタナ+D・アルダナ。W・クーリーは2バルブGS1000Sに乗り換え、D・アルダナは決勝を断念し、4バルブGSXカタナのデビュー戦は、ノーリザルトに終わった。

3月5日(金)の決勝でW・クーリーは4位と健闘したが、アメリカンホンダのCB750Fに1-2-3位とビクトリーレーンを独占されてしまった(F・スペンサー、M・ボールドウィン、ロベルト・ピエトリの順)。ホンダCB750F勢は、31度バンクでW・クーリーのGS1000Sをドラフトにも入らせず引き離していく……もはや2バルブGS1000Sではダメだ、何としても4バルブGSXカタナを仕上げなければならない。第2戦タラデガは、この年は1週間後の3月14日に行われたのだが、4バルブGSXカタナで出走してW・クーリーはわずか3ラップでリタイアした。またしてもピストン破損だった。

不二雄は、タラデガのレース後、シュツットガルト(ドイツ)へ飛んだ。そこは有名なマーレー社のピストン試作工場で、たった3人(祖父、父、息子)で営み、設備も古臭かったが、何でも戦前から戦闘機(メッサーシュミット)用のピストンを製作していたとかで、ウデはたしかなのだ。つまり不二雄は、ピストンをそれまでのアルミ鋳造からアルミ鍛造に切り替え、強度を増そうと考えたのだ。

出来上ったアルミ鍛造ピストンは、狙い通り素晴らしく、熱強度は飛躍的に上がり、ピストン破損の問題は解決された。4月18日第3戦リバーサイドに鍛造ピストンが初投入されると、W・クーリーは4位に入賞。以後第4戦エルクハートレイクで2位に入り、第5戦ラウドン4位、第6戦ラグナセカ3位、第7戦ポコノ7位、第8戦シアーズポイント5位、第9戦シアトル2位、第10戦デイトナ:リタイア、第11戦ウェストパームビーチ3位と終始安定したパフォーマンスを示した。

また、フォーミュラ1クラス(4ストローク1025cc、2ストローク750cc)では、4バルブGSXカタナを使わず、2バルブのGS1000R(鉄フレーム+リアフルフローター、φ70.9×64.8mm、1023cc)で戦い、5月23日エルクハートレイク(フォーミュラ1として2戦目、AMAとして第4戦)でW・クーリーが優勝。2バルブGSユニットも依然高いパフォーマンスを見せ、W・クーリーはランキング3位を得た。チャンピオンは怪物水冷V4のRS1000RW“FWS”を駆ったM・ボールドウィンだった。

川のような路面を行くテスタロッサ1000R+W・クーリー。レインウェアにゴム製のブーツカバーまでして臨む。本当は、レーシングレザースーツ(クシタニ製)もピンク&ホワイトで美しいのだが……。テスタロッサ1000Rは鉄ダブルクレードルフレーム+モノショック(アルミ角断面スイングアーム+上側スタビライザー)に、150psのGSX1000Sエンジンを搭載。

1982年鈴鹿8耐は、台風10号直撃で6時間に短縮され、最悪のウェットコンディションで、まるで川の中を走るようだった。伊太利屋SPORTヨシムラR&Dでエントリーしたピンクとホワイトのテスタロッサ1000R(GSX1000S:W・クーリー/D・アルダナ)は予選4番手からスタートすると、途中D・アルダナがハイドロプレーニングでグランドスタンドのストレートで転倒するなど苦戦したが、何とか6位で完走。ドライの予選でも最速とはいかず、予選1番手だったのは、皮肉にも2バルブGS1000Rのスズキフランスだった。

ファッションブランド、伊太利屋カラーのピンク&ホワイトにカラーリングされた1982年鈴鹿8耐仕様のテスタロッサ1000R(GSX1000S・TT-F1仕様)。当時、フルスポンサーカラーは非常に珍しかった。奥は1980年鈴鹿8耐優勝マシン、GS1000R(XR69)。

不二雄は不満だった。4バルブGSXカタナは開発時間が短く、実質シーズンが始まって4月に入ってからやったようなものだ。鍛造でピストンは何とかなった。だが、4バルブGSXカタナは、まだ多くの問題を抱えていた。そのひとつは、動弁系のジオメトリーだった。GSXは直打式のGSやZと違って、ロッカーアームを介したDOHC(2バルブ1ロッカーアーム)、レバー比がきつく、カムシャフトやロッカーアームがかじりやすかった。また、2バルブGSと比べてエンジン幅も重量もあり、STDフレームのスーパーバイクにしろ、専用のTT-F1フレームにしろ、バンク角やハンドリングで有利なことはなかった。

鈴鹿8耐(三上訓弘/伊藤巧)やMCFAJ(FISCO・坂田典聡など)が、スーパーバイクスタイルのGSX1000SZを駆った。マフラーはサイクロン集合管で、アルミサイレンサーが湾曲した通称“バナナ”管。

そして4バルブGSX1000SZカタナで、地元南カリフォルニアのAFM(アメリカン・フェデレーション・オブ・モーターサイクリスツ)主催のレースに出ることにした。AFMのトップカテゴリーは、AMAスーパーバイクと違って排気量は無制限だが、あえてAMA仕様の1024ccで参戦。ライダーはW・クーリーではなくフレッド・マーケル。後にアメリカンホンダ入りする若手ナンバー1だ。ライダーが変われば、何か違う面が見えるかもしれないと不二雄は考えた。

まず、11月28日ウイロースプリングスでのAFMスーパーバイクだ。AMAナンバー1プライベーターで、AMAでも上位を走るハリー・クリンツマン(レースクラフターズKZ1000S1)、マイク・スペンサー(バンス&ハインズ1170ccカタナ)、ロベルト・ピエトリ(アメリカンホンダCB750Fスティーブ・ワイズ車)などけっこうな強者が走る。そこで#34F・マーケルはポールポジションを獲得。そして2ヒート制のヒート1で優勝した。レース中には最速ラップも刻んだ。ヒート2はクラッチに問題が出て早々にリタイアしてしまって、オーバーオールでは7位。優勝はH・クリンツマンだった。

自信を得たヨシムラは、12月10日リバーサイドでのAFMオープンスーパーストリートにF・マーケルを乗せて再び参戦。ここでUSカワサキのE・ローソン(KZ1000R:φ70×66mm、1015cc)が、優勝したこの年のAMA第3戦でマークしたコースレコードを1.14秒も縮め(1分28秒93)、H・クリンツマンを寄せ付けず独走で優勝を果たした。

「うれしかったね。このカタナは152馬力だった」(不二雄)

最強といわれたアメリカンホンダCB750F(φ68.7×69mm、1023cc)の150馬力を上回ったのだ。ヨシムラR&Dは、サイクルニューズ紙にコースレコード樹立の広告を出した。

“RECORDS ARE MADE TO BE BROKEN. BY YOSHIMURA.”

記録は、破られるために作られる……。4バルブGSX1000SZカタナ。1025cc時代の最速最強モンスターは、最後の最後に完成していた。ただ、もう少し早く……。そしてAMAスーパーバイクは、1983年から750ccレギュレーションで行われることとなった。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。