【ヨシムラヒストリー03】POPと雁の巣とCB72/77が逸材たちを育てた。そして、地元九州に“全日本”を迎える。の画像

世界屈指の4ストロークチューナー、ヨシムラ。その歴史は、数奇な運命に翻弄されながらも、巨大な勢力に挑戦し続けてきた日々だった。創始者POPと、その長男・不二雄。そして第3世代へ。九州から東京へ、日本からアメリカへ。ヨシムラの足跡を追う。

【ヨシムラヒストリー03】POPと雁の巣とCB72/77が逸材たちを育てた。そして、地元九州に“全日本”を迎える。

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
  • 掲載日/2018年7月20日

to 1964 “Big Minor Boys”

KTAには日本人メンバーが増えていった。フェンスの向こう側の「アメリカ」で毎週末行われている楽しそうな競走に、若者たちが興味を抱かないはずはない。日曜日の午後になると、フェンスの外側にも多くの若者が集まるようになった(午前中、アメリカ兵は教会へ行くのでレースは午後からだった)。

そんな頃、POPはもちろん、その後の日本モーターサイクルレーシングを大きく変えるバイクが1960年10月に発売された。ホンダ・ドリーム スーパースポーツCB72だ。

4ストロークパラレルツインで、バルブ駆動はトライアンフ、BSA、BMWのようなOHVではなく、新時代を告げるSOHC(2バルブ)だった。排気量250ccのCB72(ナナニイ)のほかに、主に海外需要を狙った305ccのCB77(ナナ・ナナ)が翌1961年に発売された。72のキャッチコピーは「70km/h以下ではトップギアで走れません」と刺激的。ところがPOPは、最初この72にあまり興味を示さなかった。前身のC70(SOHC)の構造に不満があり、チューニングする余地も小さかったからだ。ところがよく調べてみると、C70とは肝心のクランク強度が格段に違っていた。クランクの圧入部がC70が2ヵ所だったのに対して、CB72/77は1ヵ所だったのだ。そのクランクはクランクピン位相が異なる2タイプが用意され、タイプⅠが高回転型の180度(不等間隔爆発だが往復運動部のバランスに優れる)、タイプⅡが一般的な360度(低中速型といわれた)だった。もちろんPOPは高回転で振動が少なくパワーが出しやすい180度が気に入った。

CB72/77の登場で、高価な外車には手が出なかった日本人たちも、雁の巣のフェンスを越えることができるようになった。その中には、限りない資質を感じる少年や青年もいた。

倉留福生とは芦屋のドラッグレースで出会った。最初はC70か何かに乗っていた。POPはしばらくして倉留をライダーとしてだけでなく、メカニック・営業としてショップに雇った。ヨシムラ初の社員だ。走れば速いし、POPが苦手としていた米兵からの料金徴収も、ブロークンな英語と人柄で上手くやってくれた(POPは未払い料金を自ら請求しなかった)。

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吉村モータースは外車を扱う代理店九州バルコムモータースでもあった。倉留はヨシムラの初代エースライダーであり、ヨシムラとKTAの番頭役であり、優秀な営業マンでもあった。POPに声をかけられ入社。それ以前が芦屋タイミングアソシエーションの数少ない日本人メンバーで、ホンダの販売店で工場長をしていた。

そして走る資質で光る少年が相次いでヨシムラに入門してきた。高武冨久美と永松邦臣だった。2人は1944年生まれ。他の誰とも違う輝きがあった。ただ、高武は大問題児でもあった。血気盛んな、いわゆる不良。両親もさじを投げるほどだった。見かねたPOPは、自宅に居候させることにする。それでも警察に身柄を引き取りに行くこともしばしば。「才能を無駄にするな」と諭し、厳しいトレーニングを課した。高武や永松たち若手は、早朝に約4kmのランニング、柔軟体操、100段以上ある階段でのダッシュ……。予科練での特訓そのものだったが、現在のアスリートとしてのレーシングライダーならば当たり前かもしれない。そして週数回は博多~佐賀県・神崎までの片道約100kmを、POPがBSAで先導して実走トレーニング。海岸沿いの一般路だったが、大らかな時代で片道約1時間。もちろん週末は雁の巣でレースだ。現在のアメリカのローカルでも同じだが、サーキットで練習という概念はない。週末にしか走れないのだから、即レースなのだ。

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POPが雁の巣で育てた逸材たち。#3高武富久美(CB72)と#100永松邦臣(CB77)。2人は同じ年で10代で入門。POPは後に2人をホンダの田中健二郎に紹介し、RSCの鈴鹿合宿(通称健二郎学校)に参加させた。

高武や永松は、兄貴分の倉留の指導もあって、レーシングライダーらしい走りになっていった。高武は後に「オヤジさんに出会って厳しい指導を受けていなければ、ロクな人間になれなかったでしょうね、間違いなく」と語っている。その高武は現役引退後にチーム高武RSCで、故加藤大治郎、宇川徹、柳川明など日本を代表するライダーを育成することになる。これも、この頃のPOPとの経験がそうさせたのだろう。

高武は走りも気質そのままで、がむしゃらで暴れるバイクを本能的にコントロールしてしまう。一方永松は鋭く、しかも先鋭的なライディングフォームを見せていた。イン側のヒザを開き、腰も少しズラしていた。

「誰かに教わったわけではなく、現代の物よりずっとバンク角が浅いあの頃のバイクで、雁の巣の滑りやすい砂利道や舗装路面で速くコーナリングしようと思っていたら自然にそうなった」という。

まだ1960年代初頭の、しかも九州のローカル。世界GPで故ヤーノ・サーリネンがハングオフを見せたのは1970年代に入ってからだった。

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ヨシムラCBは速かった。倉留も新しいライディングテクニックを身に付け、美しいリーンウィズは和製ジョン・サーティースという評判も取った。ヘルメットには九州が描かれている。

永松同様に美しい走りをしていたのは、福岡ホンダの松本明だった。福岡ホンダは雁の巣でのヨシムラ最大のライバルであり、親しい仲間だった。福岡ホンダのリーダーは鴨川清志で、POPとは板付でのレースで知り合った。その鴨川を追いかけて成長したのが、松本だった。長身で、日本人離れしたスマートで鋭いライディングは注目された。

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永松(右)はホンダに認められ市販レーサーCR72の開発ライダーに抜擢(左の高武はフルカウル仕様のCR)。CRは国内には有力チームに供給されたのみで、しかも複数台が九州・雁の巣にあったということは、ヨシムラは大メーカーに認められた存在だった証だ(写真は1962年以降の物と思われる)。

POPは福岡ホンダなど雁の巣の仲間たちに、自ら行なったチューニングを公開した。「オヤジさんが作ったエンジンはどこもピカピカ。それにエンジンも車体も穴だらけ。軽量化は徹底してました」と松本。ただ、クランクに関してはバフがけはされていたものの、STDだった。「メーカーが最適に設定した物をイジってはいけない」というのだ。けれども、福岡ホンダでは「軽量化した方が回るしパワーが出るのでは」と提案した。POPに反対されたが、福岡ホンダは、物は試しと72のクランクを軽量化し、次のレースでPOPのマシンを破ってしまった。

この結果にPOPは何かひらめいたのか、今度は徹底してクランクを軽量化した。これが見事に当たり、POPの72は独自に軽量化した福岡ホンダの車両を遥かに上回る速さを見せたのだ。後になって考えれば、72などその頃の市販車はクランクが重く、チューニングの伸びしろが大きかったのだ。もちろんPOPは軽量クランクを福岡ホンダに見せた。仲間に秘密はない。それがPOPの考え方だった。また、カムはベース円を小径にするだけでは充分なバルブリフト量を得られず、ステライトを盛ってから研削する手法に切り替えた。これも72というチューニングに耐えうる素晴らしい素材を得たからだ。

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ヨシムラのライバルチームである福岡ホンダのエース、鴨川清志はクレバーなライダーで人望が厚く、KTAでは日本人ライダーのリーダー格だった。また、九州ホンダには優秀メカニックもいて、クランク軽量化などPOPも気付かなかったアイディアも出した。

POPはバイクだけではなく、ライダーや仲間たち、そしてレース環境を“チューニング”していった。機械や人間だけでは不十分。そして大きな行動に出た。1962年3月末、POPはMCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)会長で、モーターサイクリスト誌を出版する八重洲出版社長の酒井文人に会いに東京まで出かけた。「いっぺん九州でクラブマンレースを開催してもらえないだろうか」とPOPは単刀直入に切り出した。POPと酒井は初対面だったが、POPが率いるKTA(九州タイミングアソシエーション)は1959年にMCFAJの会員になっていた。

MCFAJでは1958年に浅間高原自動車テストコースで第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースを開催して以来、毎年全日本クラブマンレースを行なってきて、日本のモータースポーツに欠かせない存在になっていた。POPは雁の巣のコース、KTAのレース参加者数などのデータを提示した。一方酒井は、この1962年第5回大会の会場を決められずにいた。POPは関西からの参加者も多いなど熱気に満ちた説明をするも、MCFAJの主な会員は関東。結論は出なかった。が、POPは4月に再び酒井を訪ね、開催を要望した。

酒井は6月に九州の吉村モータースに向かい、POPと3度目の話し合いをした。他会場の手配もできないから、雁の巣での開催を決めたのだ。POPと米兵と九州の仲間たち雁の巣は、ついに各メーカーのファクトリーも参戦する“全日本”を迎えることになったのだ。

こうして第5回大会はMCFAJとKTAの共催で7月14、15日に開催が決定した。私利私欲とは無関係の、POPの熱意が日本モータースポーツの歴史を動かしたのだった(文中敬称略)。

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雁の巣のコースは基地のサービスロードを利用していた。ヨシムラの倉留が美しいフォームで抜けるここは、左90度ターンの2コーナー。舗装路面にはステップなどで激しく削られた跡が今も残る。

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ヨシムラの主役たちとCR。左から永松、倉留、お客の米兵、高武。みんな生意気で街ではカッコをつけ、問題も起こした。けれども、走ることには純粋だった。雁の巣の日曜日の午後、彼らは日常を忘れてワイドオープン。誰も自身の未来など想像もできなかった。

ヨシムラジャパン

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住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748
電話/0570-00-1954
営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。

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