【ヨシムラヒストリー02】POP自らチューンしたBSAで1/4マイルをブッチ切り。飛行機の離陸時のような快感が蘇った。の画像

世界屈指の4ストロークチューナー、ヨシムラ。その歴史は、数奇な運命に翻弄されながらも、巨大な勢力に挑戦し続けてきた日々だった。創始者POPと、その長男・不二雄。そして第3世代へ。九州から東京へ、日本からアメリカへ。ヨシムラの足跡を追う。

【ヨシムラヒストリー02】POP自らチューンしたBSAで1/4マイルをブッチ切り。飛行機の離陸時のような快感が蘇った。

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2018年6月14日

1950s-1960s “The Other Side of the Fence.”

「吉村モータース」を開業した1954年に、奇しくもホンダの創業者、本田宗一郎は「マン島TT出場宣言」をしていた。前年には名古屋TTや第1回富士登山レースなどが開催されるなど、戦後の日本社会の復興と同調して、バイクは人々の生活の足として急成長し、そして徐々に娯楽としても認知されるようになっていった。

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吉村モータースには益々米兵がやって来た。自宅には多くの米兵が押しかけ、食事を一緒に取り、ツーリングにも出かけた。

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そして開業して1年ぐらい経った頃、秀雄は米兵に誘われて、基地で開催されるドラッグレースに初めて参加した。補助滑走路を使った0-1/4マイルのシンプルな1対1の競走だ。

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秀雄は国産のキャブトン600(OHVバーチカルツイン)で走った。負けはしたが、まるで飛行機が離陸するときにのような感覚に魅了された。しばらくしてバイクをBSAゴールデンフラッシュ(650cc OHVバーチカルツイン)に替えた。当時の国産車は英車やドイツ車を真似た構造で、材質が悪く、すぐに壊れたからだ。英国製BSAを秀雄は独自に改造、パワーアップし、軽量化した。そのヨシムラBSAで、秀雄は板付飛行場のレースで断トツの速さで勝った。

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「すごいじゃないか、POP! オレのバイクもパワーアップしてくれ!」

秀雄のバイクの速さは一躍有名になり、いつしか秀雄は、スラングで「オヤジさん」を意味する「POP」とか「POPS」と呼ばれるようになった(後にウエス・クーリーはS付きのPOPSと呼んでいた)。

米兵は改造、パワーアップさせることを「HOP UP」とか「SOUP UP」と表現した。正確にはこれが正しく「TUNE UP」は「調整する」という意味だから、改造した場合は「ホップアップ」や「スープアップ」なのだ。

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POPはバイクをイジるおもしろさを発見した。教科書は米兵が持ってきた「Hot Rod」(1948年発刊のクルマ中心のカスタム雑誌)や「Cycle」(1950年発刊のバイク専門誌)などのアメリカ雑誌だった。日本にはないきらめくパーツやチューニング方法が数多く掲載されていた。けれども記事のままのチューニング方法では壊れてしまうことが多くて、POPは航空エンジニアで培った理論と、独自の発想でエンジンをイジっていった。

そのひとつがハイリフトカムシャフトの製作だった。バルブリフト量を増やせば、それだけ多くの混合気を吸入でき、効率良く排気できる。そうすれば当然パワーアップする。POPはSTDのカムのベース円(ベースサークル=軸受けされる正円部)を小径に削ることで、カム山(カムノーズ)がそのままでも相対的にハイカムになることを思い付いた。このアイディアはバルコムモータースの人の言葉がヒントになっていた(1957年からPOPは日本屈指の修理技術を買われ、BMWやBSAなど外車を輸入販売するバルコムモータースの九州代理店も兼ねるようになった)。

これがヨシムラ製ハイカムの第1号だった。ベース円を小径化した分だけ、バルブステム長が足りなくなるが、これはステムの上に肉盛りしてステムを長くし、肉盛り部には青酸カリの粉をまぶし溶接トーチで焼きを入れ、直後に油に突っ込んで冷却(焼き入れ焼き戻し処理)し、ステム母材と同等の強度を確保した。青酸カリは猛毒で、入手も作業も危ないのだが、長男・不二雄も中学生になる頃にはよく手伝っていた。

さらに材質が当時のバイク用より遥かに良い外車の自動車用を加工したビッグバルブ、吸排気効率を高めるためのポート研磨、エンジンばかりか車体のレースに必要とされない部分の軽量化(削る、穴を開ける)など、その後の4ストロークチューニングとなる技術を早くも駆使していた。こうして米兵とのドラッグレースで、POPは4ストロークチューナーとしての基礎をしっかりと構築していったのだった。

米兵と日本人のボスとしてKTAを束ね、そして雁ノ巣でロードレースを始めた

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レースやツーリングを主催していたのはKTA(九州タイミングアソシエーション)で、これは板付基地内の米兵のクラブだった。POPはKTAの創設に関わった最初の日本人クラブ員で、米軍に責任者(司令官)がいたが、実質的に率いてたのは副会長役のPOPだった。レース運営でもバイクいじりでも中心だったからだ。

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その頃、米兵の事故が多発していた。彼らは20歳そこそこで、右側通行もちゃんと理解者していない。そこで基地の司令官はPOPにKTAでしっかり指導するように話し、POPは「バイクを持っている米兵は全員KTAに入れろ」と申し入れて、毎月1回安全運転講習会を行うことにした。以後、米兵の事故はかなり減った。

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KTAでは板付飛行場や芦屋基地などに加えて、雁ノ巣飛行場(元海軍基地で飛行艇の飛行場。米軍名ブレディベース。現雁ノ巣)でもレースを行うようになった。芦屋でも行ってはいたが、雁ノ巣でのそれは本格的なロードレースだった。

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雁ノ巣は博多湾にある、志賀島へ続く海の中道の根元にあって、滑走路の外周にあるサービスロードを利用したレーストラックだった。海側の直線区間はジャンプもある砂利道で、飛行艇の走路に当たる部分に鉄板路もあったが、3/4ぐらいは完全舗装路という1周4.3kmの立派なクローズドコースになっていた。日本のレースの中心であった浅間は火山灰混じりのダートで、こちらは舗装路。後に雁ノ巣が日本ロードレースのルーツと呼ばれたのは、この舗装路面にあった。

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POPとKTAのメンバーは1年中、毎週末に雁の巣、板付、芦屋でレースを楽しんだ。まさに九州版の「ON ANY SUNDAY」だったのだ。そして、そこにはまだ一般の日本人では手に入らないコカ・コーラ、ホットドッグ、サンドイッチ、アイスクリームが……(POPの子どもたちの大好物だった)。最初は薬みたいな味と驚いたコカ・コーラや、酸っぱさが妙だったマヨネーズも、慣れるとクセになる美味しさだった。遥かなる豊かな国と、戦後の復興途中の母国との格差。週末、基地のフェンスの内側は日本ではなく、アメリカそのものだった。

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そして、POP自身にとっても、その後の日本モーターサイクルレーシングにとっても、重要なバイクが市販された。ホンダ・ドリーム・スーパースポーツCB72(1961年11月発売)だ。このバイクの登場で、高価な外車に手が出せなかった日本人たちが、雁ノ巣のフェンスを越えることができるようになったのだった。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748
電話/0570-00-1954
営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。