【ヨシムラヒストリー01】不運な事故でパイロットの夢を絶たれ、史上最年少の航空機関士となりエンジニアにの画像

世界屈指の4ストロークチューナー、ヨシムラ。その歴史は、数奇な運命に翻弄されながらも、巨大な勢力に挑戦し続けてきた日々だった。創始者POPと、その長男・不二雄。そして第3世代へ。九州から東京へ、日本からアメリカへ。ヨシムラの足跡を追う。

【ヨシムラヒストリー01】不運な事故でパイロットの夢を絶たれ、史上最年少の航空機関士となりエンジニアに

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2018年5月31日

1922-1954 “Dream In The Air.”

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吉村秀雄は1922年10月7日、九州・福岡の雑餉隈(ざっしょのくま)で生まれた。父は木工所を営んでいて、発明家でもあった。吉村家は5人の子どもを授かり、秀雄はその真ん中だった。国民学校初等科(小学校)の頃、秀雄は飛行機乗りに憧れた。ただ、それは漠然とした夢であって、もう少し具体的な目標は野球の強い中学校へ進学し、甲子園を目指すことだった。秀雄は優秀なサウスポーピッチャーだったが、吉村家の経済状態では、有名中学校へ進学するのが難しく、秀雄はそのまま国民学校高等科(義務教育の2年生。現在の中学校2年まで)に進んだ。

野球の他に打ち込めることは何か? そんなとき、飛行記録に挑戦中のフランスの飛行機が県境に墜落した。自宅から20kmぐらいあったが、秀雄は現場の近くまで行った。日本も含めて世界は航空機の進化を競っていた頃だった。

「やっぱりコレだ、飛行機乗りになる」

1937年(昭和12年)秀雄は海軍の少年航空学校(後の予科練)を受験し、見事に合格。この年の志願者数は全国で1万数1,000名、合格者は僅か219名だった。そして6月1日付けで少年航空学校第8期生となった(その中で1、2の若さだった)。横須賀に向かう日、地元の駅では「万歳、万歳」の歓声が響いていた。まだ14歳の旅立ちだった。

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1年ぐらい経って、茨城県・霞ヶ浦に近い谷田部で飛行訓練に入った。そして飛行時間30数時間が過ぎた頃、事故は起こった。三式初等練習機(通称赤トンボ)で教官と飛んでいた(複座)とき、エンジンが突然火を噴いた。「後は俺に任せて飛び降りろ!」と教官が叫ぶ。高度約800m、必死でパラシュートを開くためのリップコードを引く!! が、開かない!! 物凄いスピードで地面に落ちていく。母の顔が浮かんだ。もう死ぬ……突然、強い衝撃があった。地面に叩きつけられたのではなく、地上数100mでパラシュートが開いたのだ。

入院してから高熱が続いた。肋膜炎だった。さらに結核が見つかった。約2カ月の入院後、兵役義務免除……。もう飛行機乗りになれない身体になった。

福岡に戻ってから体力は回復し、肋膜炎どころか、結核も直った。大空と飛行機への憧れは捨てられず、民間航空会社の大日本航空(現在のJAL)・福岡支所に入社した。整備士だった。エンジンはおもしろかった。が、予科練崩れのチンピラだ。態度が悪い。そんなとき、大日本航空の現役パイロットに出会った。彼も元海軍。

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「エンジンを本気でやりたいなら、態度を改め、2年間徹底的に勉強して航空機関士の資格を取れ!!」と諭された。

秀雄は一旦会社を辞め、研修生として大日本航空の整備工場へ通いながら猛勉強した。航空機関士免許に合格するには、最低でも工業高等学校卒(現在の短大卒か高専卒)レベルの学力が必要で、中島飛行機や三菱などのメーカーで働きながら受験する人も多かった。けれども秀雄は国民学校高等科卒。そして1941年(昭和16年)9月、秀雄の元に合格通知が届いた。

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ところが、しばらくして逓信省(後の郵政省。現在民営化)から合格証を送り返せという知らせがあった。返送して1カ月ほど経つと、新しい合格証が届いた。免許取得日が昭和16年10月13日に変更されていた。

これは19歳以上という規定があって、18歳の秀雄を合格させるわけにはいかなかったから、10月7日の19歳の誕生日後に合格としたのだ。こうして史上最年少の航空機関士が誕生した。

秀雄は大日本航空に再入社。間もなく日本は12月8日に真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へ突入してしまった。民間の大日本航空も戦地へ向かう任務が回ってきた。秀雄は海軍徴用隊として1942年(昭和17年)5月、シンガポールへ向かった。ダグラスDC3の機関士として東南アジアの空を飛び回った。

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計器に現れるより先に異変を感知しようと、エンジンの音に耳を澄ませた。同時にシンガポールでは女のコを口説くために英語を覚えた。1944年(昭和19年)7月、秀雄は社内恋愛し、直江と結婚した。秀雄22歳、彼女は19歳だった。

戦況は悪化。航空燃料も粗悪になり、エンジンパワーが出ない。敵機に狙われる危険なフライトが増えていった。そして特殊任務が命ぜられた。台湾から沖縄まで、特攻機の先導だった。秀雄たちの銀河(双発の夜間攻撃機。航続距離を稼ぐため機銃など武装を取り外し軽量化された)は往復燃料を積むが、特攻機は片道分。彼らは未熟で若かった。敵艦上空まで先導し、特攻を見届け帰還する……。

辛かった。

しばらくして秀雄は胃潰瘍で倒れた。極度の精神状態から酒を飲み過ぎたのだろうか。福岡に戻り、胃を2/3切除した。終戦の2カ月前のことだった。この最後の2カ月間に、少年航空学校や海軍徴用隊の仲間の多くが戦死した。第8期生は219名中、生き残ったのは僅か30名。こうして大空の神様は、秀雄を再三再四救ったのだった。

スラングな英語が米兵を呼び、飛行機で得た知識と技術でバイク屋を始めた

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戦後、雑餉隈の実家には次第に米兵が集まるようになっていた。秀雄が英語を話すからだ。少し前まで敵だった彼ら。でも、秀雄は彼らを憎めなかった。彼らも戦争の犠牲者だ。秀雄は米兵に母国へ土産物として日本刀や着物を調達してあげていたが、それが次第に日本製ウイスキーに代わり、見返りはお金から進駐軍でしか手に入らない缶詰、バター、砂糖、タバコなどになっていった。これらは当時の日本の庶民には手に入らない物ばかり。これらを秀雄はヤミで売った(もちろん違法を承知していたが、一家を食べさせるために仕方なかった)。が、1946年の年明けに捕まった。一旦は胃潰瘍の術後であることから執行猶予を得ていたが、それも限界で、日米講和条約による恩赦も期待できず(サンフランシシコ講和条約は1951年調印、1952年発効)、ついに1949年に服役した。模範囚だったので懲役1年6カ月のところを6カ月で出所。それからは、服役前から一家で行っていたベルトコンベアの継手(発明家の父が特許を取っていた)を製作する仕事に没頭した。吉村家も木工所から鉄工所へと変わっていた。

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この間に長女・南海子(1946年)、長男・不二雄(1948年)が誕生していた。1952年、日本航空(旧大日本航空)が業務を再開し、当然秀雄にも声が。秀雄の兄1人では鉄工所は回せない。飛行機への未練はあったが……。

そんな秀雄のいる鉄工所には、バイクの修理でやって来る米兵が増えていった。英語を話せる、修理が上手いと評判になっていたのだ。板付基地は雑餉隈から4kmぐらいだったこともある。

バイクはシンガポール時代にハーレー・ダビッドソンを乗っていたこともあったし、ベルト継手のセールスにはキャブトン350を使っていた。何となく飛行訓練で乗っていた赤トンボのような感じもしていた。ベルト継手の売り上げは炭鉱の閉山によって下降気味。これならヤレそうだ。エンジン本体は飛行機と同じ4ストローク。後はミッションやクラッチのことを勉強すればいい。

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秀雄は1954年、兄の鉄工所の片隅を借りてバイク屋を始めた。この「吉村モータース」こそ、現在の「ヨシムラ」の原型だ。こうして小さなバイクのエンジンいじりが秀雄の仕事になった。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。