1987年世界耐久選手権第5戦、鈴鹿8時間耐久レース(7月26日決勝)は、ついに最後の勝負を迎えた。トップを走る#45のヨシムラは、タイヤ交換、ガスチャージ、ライダー交代(G・グッドフェロー→高吉)を順調の終え、メカニックたちに勢い良くプッシュされピットアウト。暗くなる最終スティントに備え、高吉はヘルメットのシールドをクリアに交換していた。

【ヨシムラヒストリー25】鈴鹿8耐、残り5分。#45 高吉克朗がトップを走っていた……

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、磯部孝夫、桜井健雄
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2024年1月23日

1987 Almost 1st. Place

辻本聡がAMAスーパーバイクシリーズに挑戦する関係で、ヨシムラの全日本TT-F1/TT-F3は若い2人のライダーに託された。エースはヨシムラ2年目の大島行弥(1965年1月30日福岡県生まれ)で、前年は全日本TT-F1で辻本聡に次いで見事ランキング2位となっていた。もう1人の高吉克朗(1963年5月12日鹿児島県生まれ)は、ヨシムラ1年目で、前年はアマチュアライダーの祭典・鈴鹿4耐で優勝していた。そのときのチームは、ヨシムラのマイナーリーグ的存在のミラージュ関東で、マシンはヨシムラチューンのスズキGSX-R400。POPは孫のように若い2人(高吉とペアの石上均)を出迎え、大喜びしていた。

1987年の全日本TT-F1には、前年は6月の鈴鹿200kmまでしか参戦していなかったホンダ(RVF750)がフル参戦し、カワサキ(ZXR-7)も全戦ではないもののファクトリーチームを送り込んできて、1985年から参戦しているヤマハ(YZF750)に加え、正にファクトリー激突の時代に突入したと言えた。

3年連続の全日本TT-F1チャンピオンに向けて、ヨシムラスタッフは気合が入っていたが、マシンの優位性はすでになく、ホンダRVF750、ヤマハYZF750などファクトリーマシン勢に対しパワーではむしろ劣勢だった。また、油冷機になって初めてスプリントレースだけでなく鈴鹿8耐にもフルカウルで臨んだ(過去2年の鈴鹿8耐はハーフカウルだった)。

それもこれも同じTT-F1で行われる鈴鹿8耐が異常な盛り上がりを見せ、各メーカーが必勝を期して臨んでいるからに他ならなかった。また、TT-F3にもホンダとヤマハのファクトリーチームが参戦していて、マシンもTT-F1並み(ホンダRVF400、ヤマハYZF400)で、世界で最もレベルの高いミドルクラスレースとなっていた。というわけで全日本のTT-F1もTT-F3も世界最高峰のプロダクションレースであり、4ストロークレースとしても世界一であった(2ストロークマシンも混走するが)。

だが、ヨシムラのエース大島は全日本TT-F1クラスの第1戦から第5戦(内TT-F1クラス開催は3戦)まで、3戦して7位が1回と、波に乗れなかった。一方、高吉は3位表彰台1回と7位1回、ルーキーとしてはまずまずの成績を残していた。

1986年全日本TT-F1ランキング2位の大島。1987年シーズンの前半は思うようなリザルトを残せなかったが、6月の鈴鹿200kmから復調した。なお、この年からメインスポンサーがMOTULからOLIO FIAT(フィアットの純正オイル)に変わった。

大島は鈴鹿8耐前哨戦の鈴鹿200km(全日本第6戦・TT-F1の4戦目・6月7日)で、ついに力を示した。予選も決勝も、ヤマハファクトリーのケビン・マギー(世界GP500にスポット参戦中)に次いで2位を獲得したのだ。K・マギーは全日本第1戦鈴鹿2&4(3月8日)でトップを走り、それを追う大島が転倒して敗れた因縁の相手だった。

さらに続く全日本第7戦筑波(6月28日)で、ついに大島はシーズン初優勝を果たした。そして鈴鹿8耐前の全日本第8戦菅生(7月12日)でも優勝して2連勝。鈴鹿8耐(7月26日)後も大島の好調は続き、世界選手権TT-F1菅生(8月30日)で2位となり、全日本第10戦菅生(9月13日)で優勝して、これで全日本3連勝を飾った。続く全日本第11戦鈴鹿(9月27日)で2位に入り、ついにランキングでトップに立つと、全日本最終戦(第12戦・11月8日)筑波で3位表彰台に立ち、念願の全日本TT-F1チャンピオンに輝いた。中盤からの6戦(全9戦)は、すべて表彰台という強さだった。一方、高吉は、3位が1回でランキング9位になった。

全日本TT-F3は、高吉が大活躍。ホンダRVF400やヤマハYZF400などファクトリー勢を相手に全9戦中優勝1回、2位1回、3位2回、ポールポジション1回で、ルーキーイヤーながらランキング3位を得た。大島も優勝1回、2位2回、3位2回でランキング5位と健闘した。こうして全日本TT-F1&TT-F3は、若い2人が大きな成果を上げたのである。

全日本TT-F3を走る#50 高吉(ヨシムラGSX-R400)と#2 塩森(ヤマハYZF400)。ホンダRVF400、ヤマハYZF400に真向勝負を挑み、ランキング3位に入った高吉は立派だった。

そして、歴史に残るレースがあった。世界耐久選手権第5戦、鈴鹿8耐だ。

ヨシムラは#12 ケビン・シュワンツ/大島がエースで、#45 ギャリー・グッドフェロー/高吉はセカンドチームという体制で臨んだ。そのオーダー通りに予選ではホンダRVF750勢に続いて、#12 K・シュワンツが3番手につけた。予選1-3番手はワイン・ガードナー、ニール・マッケンジー、そしてK・シュワンツと世界GP500ライダーが占めることとなった。

K・シュワンツはAMAスーパーバイクが本業だが、’86年、’87年と世界GP500へ精力的にスポット参戦し、次期スズキのエースと期待されていた。4番手の#21 ヤマハ(テック21チーム)もマーチン・ウイマー/K・マギーで、世界GP250ライダーと世界GP500スポット参戦ライダーの組み合わせだ。

決勝レースは、あっけない幕開けだった。わずか19ラップで、エース#12 K・シュワンツがリタイアしたのだ。切れるはずのないカムチェーンが切れた(それまで1度も切れたことはなく、以後も油冷機では同様のトラブルはない)。好調の大島は、1度も決勝を走ることなく静かにレースを終えた。これでトップを走る#1 W・ガードナー/ドミニク・サロン(ホンダRVF750)に迫るチームはいなくなった。

ところが、4時間過ぎ、103ラップ目に#1 D・サロンが転倒。その隙に逆転してトップに立ったのが、ヨシムラのセカンドチームでノーマークだった#45 G・グッドフェロー/高吉だった。2番手は#21 M・ウイマー/K・マギー(ヤマハ・テック21)、3番手は#7 コーク・バリントン/ロブ・フィリス(カワサキZXR-7)になった。このカワサキはチームグリーンと登録しているものの、実質的なカワサキファクトリーチームだった。が、エンジントラブルを起こし、110ラップでリタイアしてしまった。

大きなリードを保ってトップを走る#45 ヨシムラ、それを追う#21 テック21ヤマハ。その構図は最終スティントになっても続いていた。#21 テック21ヤマハは、追い上げの作戦としてK・マギーに2連続スティントを任せた。#45 ヨシムラは、スケジュール通りG・グッドフェローから高吉に交代した。午後6時43分だった。その差、約20秒。2連続スティント作戦では、ライダーのタフさはもちろん、夕闇になっても速いことが条件で、過去にもグレーム・クロスビーやW・ガードナーなど南半球出身のライダーが、最終スティントの2連続に起用され成功していた。

ラップタイムは#45 高吉が2分22~23秒。対して#21 K・マギーが2分22秒。ラップダウンの処理などの影響で2者のラップタイムは2~3秒前後したが、平均すると#21 K・マギーの方が若干速く、その差は徐々に詰まってきていた。その状況にPOPは焦っていた。

「アップのサインを出せ!」

オフィシャルからの全車ライトオンのサインは、通常午後6時45分ごろに提示される。雲で太陽が隠れたり、雨だったりすれば早まったりもする。暗闇に包まれるのは午後7時過ぎだし、本当の暗闇は最後の15~20分だ。

けれどもヨシムラピットは、なかなかペースアップのサインボードを出さなかった。高吉はルーキーで鈴時8耐も初めてだし、まして夜間走行だ。疲れもピークに達しているだろう。何よりトップを走っている重圧は相当なものだ。それにリードは、逃げ切るには充分にあるように思えた……。

が、#21 K・マギーとの差が9秒まで縮まった時、ヨシムラはついに#45 高吉にペースアップのピットサインを出した。矢印はそれまでの斜め上から“真上”(明らかにペースアップを意味している)に変わり、“+9”(2位#21 K・マギーに対して9秒のリード)と示されていた。#45 高吉はそれを確認し、「ああ、やっぱり」と思った。

「ペースを上げなくては………!」

残り5分、あと2ラップだろう。#45 高吉が1コーナーへ進入すると、ラップダウンの車両が見え、「2コーナーでインサイドから抜こう」と考えた。が、相手は思ったよりも速く、#45 高吉のフロントフェンダーが相手のリアタイヤに接触。そのまま追突し、左(アウト側)にひっくり返った。グランドスタンド上部からもヨシムラのブルーのヘッドライトが、2コーナーで妙な向きで止まっているのが見えた。

実はこの転倒の数ラップ前、#45 高吉は2分22秒台で走っていた。ヨシムラピットはそれを2秒落ちの2分24秒台と勘違いしたのだ。サインボードには2位との差(秒単位で表記)と、矢印の向きでペースアップ/キープ/ダウンしか示されなかった。それで#45 高吉は、ペースアップしてしまったのだ。それにサインボードは、1ラップ前の情報しか伝達できない(現在ならデジタルのダッシュボードにリアルタイムのラップタイムが表示される)。

病から復帰したPOP。指揮は不二雄に任せていたが、ストップウォッチでラップタイムを計るクセはそのまま。ヨシムラは追い上げたり、接戦のレース展開は得意だが、リードを計算しての守りの展開がどちらかというと苦手なのかもしれない(POPの性格もそうだ)。ルーキー#45 高吉は逃げ切れるのか……。

ところが、9秒差まで迫っていた#21 K・マギー(テック21ヤマハ)は、この時点でトップの#45 高吉を追うのを諦めていた。2者のラップタイムはほぼ同じで、残り時間は少ない。もう追いつくのは無理だし、ここで無理やり追いつこうとして転倒でもしたら2位表彰台を逃してしまう。テック21ヤマハは参戦2年目。結果を残したかった……。

テック21ヤマハが諦めてペースダウンしたのを知らず、自分のラップタイムを2秒遅いと勘違いしてペースアップを試みた#45 高吉。その焦りなのか、単なる偶然かもしれないが、#45 高吉はラップダウンの処理を間違え、転倒した。結果論だが、#45 高吉はペースアップする必要がなかったのだ。

鈴鹿の2コーナーはランオフエリアのグラベルが広いが、#45 高吉は、その奥の方まで転がってはいなかった(ほんの10数mの地点だった)。身体は何とか大丈夫だったが、マシンは深い砂利に埋まり、重く起こしにくかった。

マシンのダメージは深刻であったが、ある意味ラッキーであった。スクリーンは割れて無くなり、アンダーカウルは外れかかっていた。一番心配だったのはフロントブレーキだった。マスターシリンダーは大丈夫だったが、リザーバータンクがハンドルの前の方に落ちていた。幸いブレーキは、効いた。再スタートする……少しでもバイクを寝かすと、外れかかっているアンダーカウルが路面に擦れ、直線では真っ直ぐ走れず、車体が右に取られる。でも、何としても、このままチェッカーフラッグを受けるしかない……。ヨシムラピットと#45 高吉は神に祈った。

「早く……早くチェッカーフラッグを振ってほしい」

#21 K・マギーは、#45 高吉の転倒の瞬間を見ておらず、2コーナーの現場を通過しても、#45 高吉の転倒に気付かなかった。#21 K・マギーが、自分がトップになったことを知ったのは、メインストレートに戻ってサインボードを見た時だった。

#45 高吉は2位だった。優勝した#21 テック21ヤマハと唯一、同一周の200ラップで、遅れること1分19秒176だったから、ほぼ半周遅れだった。#45の車両を受け取ったヨシムラメカニックたちは呆れた。これでよくブラックフラッグを振られなかったものだ、と。

ウィニングランを終えて高吉は、オフィシャルに抱きかかえられてコントロールタワーへ運び込まれ、ソファーに仰向けに寝かせられた。脱水症状と、疲労と、極度の緊張からの解放……。

「高吉、よくやった、すごいぞ……」(POP)
「……ありがとうな、いいレースをやってくれたな……」(スズキの横内悦夫部長)
「克朗、がんばったね、本当によくがんばったね……」(高吉の母)

高吉は呼吸が乱れ、小さな身体は痙攣していた。それから10分ぐらい経って高吉は、G・グッドフェローとともに2位表彰台に上がった。POPも表彰台に来た。本当に嬉しそうだった。大波のように押し寄せる観衆。それを高い表彰台から眺める。先輩の辻本は、最高の景色と言ったが、高吉にはその景色が見えていたのだろうか。その表情に生気はなく、視線の先は定まらず、焦点はどこにも合っていないようだった。

表彰台を下りて高吉は、また倒れてしまった。表彰式が終わり、本当に解放されたからなのか。感謝の言葉と、涙を流すヨシムラスタッフ……と感動の場面なのだが、ほっこりするちょっとした真実が後になって明らかになった。実は、高吉は喉が渇いていて表彰式でシャンパンをがぶ飲みしてしまい、急に酔いが回って倒れてしまったのだった。

それにしても鈴鹿8耐の女神は、トップを走る者に対して厳しい。1985年のケニー・ロバーツ/平忠彦の午後6時58分のエンジンブローといい、この1987年の残り5分の#45 高吉の転倒といい、勝者よりも美しい敗者の物語が、ときどきある。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

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定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。