AMAスーパーバイク三銃士。左からケビン・シュワンツ:1964年6月19日テキサス州ヒューストン生まれ、ウェイン・レイニー:1960年10月23日カリフォルニア州ダウニー(ロサンジェルス近郊)生まれ。辻本聡:1960年2月19日大阪府生まれ。3人とも威勢が良く、吸収力があって、何より無限の可能性を秘めていた。3人とも目指すはGP500世界チャンピオンだった。

【ヨシムラヒストリー24】3人のライバルがAMAスーパーバイクを支配しようとしていた

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、磯部孝夫、桜井健雄、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2023年8月25日

1987 Dynamic Three Rivals

1987年シーズンを前に、辻本聡はある決断をした。AMAスーパーバイクシリーズにフル参戦することにしたのだ。チームメイトは(ライバルでもある)ケビン・シュワンツで、マシンはAMA投入2シーズン目の油冷GSX-R750だ。日本からは、辻本を担当していた竹中治メカニックが帯同。竹中メカは、辻本と年が近いこともあって(1歳年下)、気の置けない仲間になっていた。そしてもう1人のライバルは、アメリカンホンダのウェイン・レイニーとVFR750Fだ。1987年シーズンのAMAスーパーバイクは辻本、K・シュワンツ、W・レイニーの3人が完全に抜き出た存在で、チャンピオンシップは3人の対決になるだろうと誰もが予想していた。

ところが開幕戦デイトナ200マイル(3月8日決勝・フロリダ州)には、最速最強の男が参戦してきた。フレディ・スペンサーだ。アメリカンホンダからのスポット参戦だが、彼のVFR750FはW・レイニーのマシンとは異なり、完全なHRC製ファクトリーマシンで、たとえばマフラーもW・レイニー車が右出しのKERKER製なのに対して、F・スペンサー車は左出しのHRC製だったりする。エンジンもW・レイニー車より明らかにパワフルで、スペシャル中のスペシャルマシンだった。

対抗するヨシムラスズキGSX-R750は、タイヤを前後18インチのダンロップ製バイアスタイヤから、前後17インチのミシュラン製ラジアルタイヤに変更した。この変化は、バイアスタイヤ→ラジアルタイヤの新時代を告げただけでなく、GPの最新技術がアメリカのスーパーバイクにも投入されたことを意味していた。ミシュランラジアルはGP500でホンダ、ヤマハ、スズキ、カジバの各ファクトリーチームが使っていた。ヨシムラは2人ともミシュランラジアルで、アメリカンホンダはF・スペンサーがミシュランラジアル、W・レイニーがダンロップラジアルだった。

1987年型ヨシムラGSX-R750に装着された“MICHELIN radial”。バイアスタイヤと比較してグリップ力が高く、発熱しにくいのが特徴で、バイアス時代は3kg/cm²と異状に高い内圧にして剛性確保と発熱対策をしていたが、その必要がなくなった。また、フロントフォークは、リザーバータンク付き削り出しφ43mmKYB製でGP500ファクトリーマシン用がベースになっている。なお、1987年型のレーシングデュプレックスサイクロンマフラーは、デュプレックスチャンバーがエキパイ前側から後ろ側(エンジン側)に移設された。

この年のデイトナ200は、まず計時予選(Qualifying Timed Practice)でトップ10(フロント2列)が決まり、50マイルのヒートレース(Sprint Heat:エントラントを2組に分けて行われる予選レース)の成績で11~60位が、61~75位は計時予選タイムで、78~80位は計時予選タイムと前年のシリーズランキングで決まる独特の方式だ。決勝グリッド80台に対し、50マイル・ヒート1に59台、ヒート2に58台が出走し、予選落ちがある。例え予選落ちしてしまっても7ラップのレース(Consolation Race)があり、エントラントは必ずレースを走れる仕組みになっている。これがアメリカのレース運営の良いところだ。

デイトナバイクウィークは長い。月曜日に受付があって、火曜日にフリー走行、水曜日に計時予選が行われた。トップタイムをマークしたのは、F・スペンサーだった。1分54秒572は、1985年から使用している3.56マイルロードコース(東西31度バックを含むトライオーバルの外周路+インフィールド)の最速記録で、続くK・シュワンツ、W・レイニー、そして4番手辻本(1分55秒765)までが、それまでエディ・ローソン(ヤマハFZ750)が1986年の計時予選で出した1分56秒228を上回っていた。

ただ、F・スペンサーは、最速ラップタイムを出した後、インフィールドの1個目のヘアピンコーナー(インターナショナルホースシュー)で、転倒したマシンを避けきれず、モロにぶつかってしまった。F・スペンサーと彼のVFR750Fは宙を舞い、その後路面に叩きつけられた。このクラッシュでF・スペンサーは、右鎖骨を骨折。1983年GP500を、1985年GP250&GP500を制した3度の世界チャンピオンは、1986年シーズンを怪我で棒に振り、1987年シーズンもこのデイトナまでは体調が良く完全復活するはずだっただけに、まったく不運としか言いようがない。

金曜日の50マイルレースは、本来15ラップだったのが10ラップに短縮されて行われた。そのヒート1の2ラップ目、辻本はK・シュワンツをかわしトップに立つと、その後は5ラップで5秒、最終的にはたった10ラップで8.4秒もの差を付けて優勝。辻本にとってこれがデイトナでの初勝利だった。

デイトナのインフィールドから西31度バンクに駆け上がる左ターンに進入する辻本。ゼッケンは#604。第2戦ロードアトランタの公式予選から#114になる。USヨシムラでは、市販車に従ってカラーリングを1986年型赤/黒/白から1987年型青/白に変更した。

一方、計時予選のクラッシュで最速F・スペンサーが欠場したことで、繰り上がりでポールポジションからスタートしたK・シュワンツだったが、エンジン回転が上がらないことがあるというトラブルに見舞われ、何とか2位でゴール。K・シュワンツのコメントから、点火系トラブルが推測された。デイトナでは、夜間にガレージでの整備が禁止されていたため、K・シュワンツのマシンは、スタッフが宿泊しているモーテルに持ち込まれ、徹底的に原因が追究された。

ヒート2では、W・レイニーがポール・トゥ・ウィン。ラップタイムは、ヒート1の辻本より0.5~1秒速く、やはりヨシムラの2人にとってはW・レイニーこそが最大の強敵になりそうだった。2位は、USヤマハのジム・フィリスで、3位もヤマハカナダのルーベン・マックマーター。NEWマシンのFZR750はポテンシャルがありそうだった。

日曜日のデイトナ200決勝(200マイル・57ラップ・13時30分スタート)直前の12時に、トップ6(K・シュワンツ、W・レイニー、辻本、ロジャー・マーシャル、R・マックマーター、ジョン・アッシュミド)による5ラップの賞金レース“キャメルチャレンジ”が行われた。ダートトラックで行われている形式で、ロードレースで行われるのはこのデイトナが初めてだ。レースは、ダートトラッカーでもあるW・レイニーが優勝し、賞金1万ドルを獲得。2位がK・シュワンツで5,000ドル、3位辻本は2,500ドルだった。

そして迎えた第46回デイトナ200は、W・レイニーとK・シュワンツの2人がスタートで飛び出した。続いてF・スペンサーのスペシャルエンジンを譲り受けたB・ショバート、R・マックマーター、そして辻本の順。2ラップ目、K・シュワンツは激しくW・レイニーを攻めてトップを奪取。4ラップ目のシケインで、B・ショバートが転倒・リタイア。辻本が3位に上がる。この後、K・シュワンツとW・レイニーの激しい戦いが続くが、8ラップ終了時点でその差1.3秒とややK・シュワンツがリード。そしてK・シュワンツは1分57秒台の好ラップタイムをキープし、ジワジワとリードを広げていき、18ラップ終了時点で、その差を4.6秒に広げた。19ラップでルーティーンのピットストップ。W・レイニーがガスチャージと前後タイヤ交換を行ったのに対して、K・シュワンツはガスチャージのみでピットアウト。この作戦の違いで、両者の差は15秒に広がったが、タイヤ交換をしなかったK・シュワンツは大丈夫なのか……。それでもK・シュワンツはファステストラップをマークした。が、34ラップ目のシケインでバックマーカーをアウトから抜こうとしてフロントエンドを失い、クラッシュ。13.2秒差どころか、すべてを失った。これでトップはW・レイニー。辻本は労せず2位に。3位はプライベーター(テキサス・コルセアレーシング)でGSX-R750を走らせるダグ・ポーレン。彼こそは、1986年に始まった通称GSX-Rカップレース(正式名称スズキ・ナショナル・カップ シリーズ)など、ボックスストックレース(マフラー、リアショックなど簡単に交換できるもの以外STDの無改造市販車レース)で61勝をあげたローカルレースの賞金王だ。

結局レースはそのまま進み、W・レイニーがデイトナ200初制覇。しかもレースタイム1時間53分58秒269は、前年優勝のE・ローソンより51秒387も早い新記録だった。2位は辻本。でも、W・レイニーに17秒209も離された。トップで転倒したK・シュワンツは、W・レイニーを13~14秒引き離していたから、もしK・シュワンツが優勝していたなら約30秒も遅れていたことになる。辻本のデイトナ200・2位は、1977年片山敬済の3位を上回る日本人最上位なのだが、ちっとも喜べなかった。3位は大健闘のD・ポーレンだった。

ロード・アトランタでK・シュワンツ(前)にリードしてもらう辻本。第2戦からはラグナセカとウイロースプリングスを除いて、辻本にとっては初めてのレーストラックばかりが続く。ロード・アトランタのレーストラックは、デイトナと打って変わって、緑豊かな丘陵地帯に作られたアップダウンが激しいテクニカルコースで、辻本はそれを楽しんでいた。日本に無いコースレイアウトだからこそ、得るモノがあり、楽しいのだ。

辻本は、ロサンジェルス近郊のダイアモンドバーという町に引っ越した。ヨシムラR&Dオブ・アメリカがあるチノ市はすぐ近くだ。日本風に言うなら、広めの2LDKのリゾートホテル風集合住宅だ。とにかく辻本は、アメリカに腰を据えて本気で挑戦しようとしていた。

そして迎えた第2戦ロード・アトランタ(5月17日決勝・ジョージア州)。フリー走行までAMAライセンス以外の外国人枠ゼッケンの#604だった辻本は、予選からAMAライセンスを取得して#114となった。これで晴れて正式にAMAライダーとなったのだ。

K・シュワンツ(左)と辻本は、ライバルでありながら、親友としても関係性を築いていった。辻本がラップタイムを出すと、すぐにK・シュワンツが塗り替える。すると、また辻本が……と完全に相手を意識した戦いがフリー走行から続く。普段は辻本がK・シュワンツのクルマを借りるなど仲が良い2人だが、レーストラックの上では話が違う。

ところが予選グリッドを決めるヒートレース(2ヒート制)終了後に事件が起きた。ヒート1で3位の辻本と、ヒート2で1位のD・ポーレンがヒートレース終了後の車検で、最低重量違反となったのだ。この年のAMAスーパーバイクの最低重量規定は390ポンド(約176.901kg)で、辻本車は386.5ポンド、D・ポーレン車は385.5ポンドだった。原因は、辻本車に関しては、担当メカニックが鉛のウェイトを積み忘れていたことにあった。ヨシムラGSX-R750は、最低重量より軽く仕上げられ、最低重量に合わせるためにウェイトを必要としていた(通常フレームのアンダーループやシートレールに積む)。さらのGSX-R750勢のK・シュワンツ車とランディ・レンフロー車も389.5ポンドで0.5ポンド軽かった。逆に重かったのは、VFR750FのW・レイニー車で402ポンドだった。

ところが、この重量計は気象条件によって0.5ポンド=8オンスの誤差があることが判明し、AMAは、8オンス以下は誤差と認定。つまり0.5ポンド軽かったK・シュワンツとR・レンフローは救済され、失格は辻本とD・ポーレンのみとなった。主役3人中2人が失格ではマズいと思ったのか、本当に誤差があったのか……。なお、この重量計はデイトナでは使用されていなかった。

決勝は、ポールポジションからスタートしたK・シュワンツとW・レイニーの激しいマッチレースとなり、W・レイニーが最終的に1.52秒の差を付けて優勝。K・シュワンツは、接戦に敗れて2位に。

K・シュワンツ(前)vs. W・レイニー。辻本脱落後、1987年AMAスーパーバイクは、完全にこの2人のマッチレースとなってシーズンが進んでいった。そうして、それが1988年からのGP500でも続いていくのである。

第3戦ブレイナード(6月7日決勝・ミネソタ州)、土曜日のフリー走行で事故は起こってしまった。160mph(約257.44km/h)から進入する高速のターン1で、まずK・シュワンツがフロントエンドを失って転倒。直後を走っていた辻本は、K・シュワンツのマシンに乗り上げ大クラッシュ。初めてのレーストラックのため、同僚のK・シュワンツに先導してもらった辻本だったが、それが仇となった。K・シュワンツは、右足首の腫れと路面からの擦り傷ぐらいで済んだが、辻本は、頸椎と左足首を骨折してしまった。辻本は救急搬送されたブレイナード病院から、より大きなミネアポリスの病院へ空輸されていった。

レースは、ポールポジションからスタートしたW・レイニーが、K・シュワンツに4.9秒の差を付けて優勝した。

「仕方がない、あれはレーシングアクシデントだった」と辻本は言うものの、K・シュワンツは、辻本が入院した病院で泣いていた。そしてK・シュワンツはこのレースから変わったという。チームメイトを転ばせ、大怪我を負わせた。この仕事をしていると、こんなリスクはある。ハイスピードの世界の住人は、自由と勇気と責任を背負うのだ。

チームも辻本の事故後、K・シュワンツの変化に気付いていた。マシンへの要求も感覚的で、どちらかと言えばアバウトだったものが、より細かく具体的に変わっていった。

K・シュワンツは、残り6戦中5勝。メカニックへの注文も厳しくなった。GPへも1986年に続きスポット参戦(3戦。マシンは新型V4のRGV-Γ)。ライディングフォームは、横にぶら下がるリーンインから、(後のK・シュワンツらしい)ややリーンアウト気味に変わり、より積極的にマシンをコントロールするスタイルになっていた。速さに加えて、勝負強さが身に付き始めていた。

だが、K・シュワンツは、9ポイント差でAMAスーパーバイクチャンピオンになれず、ランキング2位。タイトルは、開幕戦から3連勝した(その後は2位4回)W・レイニーに持っていかれた。チャンピオンになるためには、何が必要なのか。終生のライバル2人は、1988年から世界最高峰GP500へ戦いの場を移した。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。