1985年、鈴鹿8耐にチームヨシムラモチュールの第1ライダーとして出走した#15 K・シュワンツ。ヨシムラGSX-R750のTT-F1マシンに乗るのは、鈴鹿200km以来2回目だったが、予選では大先輩G・クロスビーよりも速かった(予選11番手2分25秒122。ポールポジションはK・ロバーツの2分19秒956)。まだ、K・シュワンツらしいリーンアウトではなく平凡なライディングフォームだった。

【ヨシムラヒストリー20】辻本、シュワンツ、そしてGSX-R750の登場

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、木引繁雄、磯部孝夫、桜井健雄
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2022年8月17日

New Kids on The New Weapon

偶然なのか、運命なのか。1985年、その後のヨシムラと世界のレーシングシーンを大きく変えることになる“大物”が、揃って登場した。その“大物”とは、画期的な油冷システムを持つスズキGSX-R750、辻本聡、ケビン・シュワンツだった。

GSX-R750は世界耐久や全日本のTT-F1では1985年から、AMAスーパーバイクでは、1年遅れで1986年からホモロゲートされた。このGSX-R750は、独特の油冷システムSACS(Suzuki Advanced Cooling System)を採用していた。“油冷”は、シリンダーヘッド裏に設けたノズルから噴射する大量のエンジンオイルでシリンダーヘッド周りを冷却する方法。通常の空冷エンジンでは、シリンダーヘッド裏にオイルバス(エンジンオイル溜まり)を設けてあるが、エンジンオイルを噴射するタイプはない。その他に別経路からピストン裏にエンジンオイルを噴射する(いずれも冷却が目的)。

シリンダーは、ウォーター/オイルジャケットのない空冷で、ピッチが通常の空冷よりも細かい冷却フィンを備えている(そのため正確には、油冷ではなく空油冷だ)。GSX-R750には、同軸上のオイルポンプが2個あって(通常は1個)、1つがシリンダーヘッド冷却用で、もう1つがクランクなどの潤滑用になっている。オイルクーラーは、水冷のラジエーターのように大型だ。このように水冷よりも構造がシンプルで軽く、空冷よりも断然冷却効率に優れているのが“油冷”なのだ。

また、GSX-R750のフレームはアルミ角断面ダブルクレードルで、スイングアームもアルミ角断面だ(もちろんリアは、モノショックだ)。車体改造が自由なTT-F1では関係ないが、軽量・高剛性なフレームは、STDフレーム使用を義務付けているスーパーバイクでは、大きな武器になる。

1985年全日本第6戦鈴鹿200kmのTT-F3。ピットで待機する#30 喜多、#55 辻本、#01 K・シュワンツ。心配して不二雄(黒キャップ)と父親ジムさん(黒ジャケット)が寄り添う。K・シュワンツは初来日、初鈴鹿。しかも直前のレースで鎖骨を骨折していた。マシンは水冷GSX-R(400)。アルミダブルクレードルフレームに水冷並列4気筒を搭載。

辻本は、無名のライダーだった。1960年2月19日、大阪府生まれ。目立った戦績はなく、あえて探すなら、国際B級で参戦した1984年鈴鹿8耐で、大阪のダイシン工業が製作したフレームにカワサキGPz750のエンジンを搭載したマシンで11位に入ったことぐらいだった。先輩の金田真一とタイヤ無交換作戦に出て、それが見事にハマッた結果だった。辻本が初めて賞金を獲得したレースだった。

ヨシムラに辻本を紹介したのは、メカニックの坂井登だった。坂井の薦めでチーフメカニックだった浅川邦夫は、1984年10月28日の全日本ロードレース最終戦(筑波)でTT-F3に出場していた辻本の走りを見た。第一印象はヒョロヒョロと背が高いだけで全然パッとしなかった。身長が180cmもあるから、大きくて重いTT-F1(とは言ってもヨシムラのマシンは最もコンパクトで軽量だが)なら何とかなるだろう、と浅川は思った。元々1985年シーズンは、外国人でも起用しようか、と考えていたから、外国人並みにデカイ辻本でも問題はない。

そもそも1985年シーズンの全日本ロードレースは、カワサキから移籍してきた喜多祥介がいた。喜多は身体は小さいがセンスがあり、大きなカワサキのTT-F1マシンを良く乗りこなしていた。だからよりコンパクトなヨシムラのマシンなら、きっとフィットするだろうというのが、ヨシムラの期待だった。

TT-F1のコースインを待つ辻本(ツナギ姿)。#50 辻本車(奥)と担当メカ、#3 喜多車(手前)と担当メカの竹中。後方はTeam GreenのGPZ750R。

そういうわけでエースライダーは喜多で、辻本はセカンドライダー。辻本は大化けするかもしれないけれど、しなくてもまあ、そこまで期待していないから仕方ない。喜多はレーシングライダーとして契約したが、辻本はヨシムラの社員として契約。だから辻本は、毎日ヨシムラジャパン(現在の神奈川県愛甲郡愛川町に所在)に一般の社員と同じく通勤し、作業していた(とはいっても整備ができるわけもなく、マシンを磨いたりしていた)。

テストを始めてみると、辻本は喜多より速かった。黙々と走り、注文に対してはハイ、ハイと素直に答える。性格は明るく、ポジティブだ。いわゆる日本人気質ではなく、外国人的な性格ともいえる。そんな辻本をPOPも不二雄もメカニックたちも気に入っていた。

1985年AMAスーパーバイク第7戦ラグナセカ。その最終コーナーをウイリーで立ち上がる#289 ヨシムラスズキGSX750EのK・シュワンツ。このラグナセカでポールポジションを獲得(通算2回)。GSX-R750のホモロゲーションが遅れ、空冷GSXながら年間12戦3勝をあげた(ライバルは水冷V4のホンダVF750F)。K・シュワンツはそれまで、1984年第12戦ミッドオハイオの15位(カワサキGPz750F)ぐらいしか戦績が残っていない無名の存在だった。

K・シュワンツも、無名のライダーだった。1964年6月19日、テキサス州ヒューストン生まれ。1984年も終わろうとしていたウィロースプリングス(カリフォルニア州)、ヨシムラR&Dオブ・アメリカは、ここで新人のオーディションを行っていた。そのウィロースプリングスのバックストレートで、K・シュワンツがハイスピードでウィリーを見せたのだ。悠々と楽しそうに、しかも、マシンを完全にコントロールしている。

動体視力が良いのだ。だからハイスピードの中でも視野が広く、見えるから落ち着いてマシンの操作ができる。対して動体視力がそこまで無いと、視野が狭くなり、はっきり映像として認識できないので一種のパニック状態に陥り、マシンの操作も慌ててしまう。動体視力は慣れで向上はするものの、最初から高いレベルである者にはかなわない。テクニックは粗削りだが、絶対的なスピードを持っている。そのスピードは、まだまだ限界が見えない。K・シュワンツは、ヨシムラ入りを果たした。

こうして1985年に偶然にも“3つのツール”が揃ったヨシムラとスズキだったが、最初に結果を残したのは意外なチームだった。まず、3月10日の全日本開幕戦鈴鹿2&4では、ルーキー辻本が先輩である喜多を押さえて3位に、その喜多は4位。続く4月21日の全日本第3戦鈴鹿(TT-F1としては2戦目)では、辻本が4位。

1985年全日本第6戦鈴鹿200km国際A・B級TT-F3の表彰台。K・シュワンツ(右)は生まれて初めての400ccレーサー(GSX-R)ながら、大健闘の2位。優勝はホンダRVF400の山本陽一、3位はモリワキZERO X1(ホンダCBR400エンジン)の福本忠(左。国際B級)。

一方、1985年シーズンは世界選手権から外れたル・マン24時間(この頃はル・マン24時間とボルドール24時間が隔年で交互に世界選手権になっていた)で、プライベーターのチーム、マルセイユ・ゾーンルージュ(ガイ・ベルタン/フィリップ・ギション/ベルナール・ミレ)のGSX-R750が、ライバルのホンダRVF750に逆転して優勝してしまったのだ。SERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)は、エルブ・モアノーが2位を走行中にクラッシュしたが、2位でゴール(ペアはリカルド・ウバン)。これで新型“油冷”は1-2フィニッシュを飾ったのだ。これら2台のGSX-R750は、本社製のTT-F1フレーム&サスペンションに、ヨシムラチューンのエンジンを搭載していた。

全日本TT-F1で結果を出したのは、5月19日の第5戦菅生(TT-F1としては3戦目)だった。辻本は予選でポールポジションを獲得し、決勝でも1ラップ目からトップに立ち、そのまま独走。国際A級初ポールポジション、初優勝。人車とも絶好調だった。

実は、この優勝には秘密があった。マフラーは、それまで並列4気筒の爆発する順番に配置したサイクロン(1980年~)の4-1集合管が日本のヨシムラの標準だったが、菅生で辻本車に装着されたのは4-2-1集合管だったのだ。製作は、浅川メカが行った。

サイクロンの4-1集合管は、通常の4-1集合管よりも最高出力が出て、高回転域での特性もすばらしい。反面、中速域にトルクが細くなる“トルクの谷”があった。そこで、最高出力はやや犠牲になるが、低中速トルクが出て“トルクの谷”を消せる4-2-1集合管を試してみることにしたのだ。中速コーナーが多く、最終セクションはシケインからの立ち上がり加速がモノを言う菅生で、4-2-1集合管はすばらしく機能した。

菅生優勝の翌日、肺を患い入院中だったPOPのところへ優勝トロフィーを持って、辻本や浅川メカが訪れた。POPはもちろん喜んだが、4-2-1集合管のことを聞いて「そうか」とだけ言って無言になった(何が気に入らないか、浅川たちはわかっていた)。

6月9日の全日本第6戦鈴鹿200kmには、K・シュワンツが初来日して、TT-F1(200km)とTT-F3にスポット参戦した。そのK・シュワンツは、ミュー(摩擦係数)の高い鈴鹿の路面について「まるでサンドペーパーの上を走っているみたい」と、リアを滑らせて曲がるいつものアメリカンスタイルのライディングがまったく通用しないことに戸惑っていた。K・シュワンツはTT-F1では転倒(予選6番手)したが、TT-F3では2位に入った。

1985年鈴鹿8耐のヨシムラ日本人チームは#37の喜多(右)と辻本(左)だった。予選6番2分23秒120(スズキ勢最上位)は先輩喜多がマークしたもの。決勝でも6位と好走した。喜多は全日本TT-F1では1勝、TT-F3でも1勝した。なお、鈴鹿8耐では熱ダレ対策から、ハーフカウル仕様で臨んだ(全日本はもちろんフルカウルだ)。

鈴鹿8耐前の全日本第7戦筑波(6月23日)では喜多が移籍後初優勝、第8戦菅生(7月7日)では今度は辻本が優勝。鈴鹿8耐本番に向けて油冷GSX-R750とヨシムラは、傍からは上昇気流に乗って仕上がりは上向いているように見えた。

けれども、鈴鹿8耐(世界選手権第3戦・第8回大会)のレースウィークに入って、事件が起きた。退院したPOPがGSX-R750のストレートの遅さを嘆き、エンジンの圧縮比を上げるように命じたのだ。普通、現場ではそのようなことは決して行わない。が、このときは、POPは頑固だった。鈴鹿が本拠地のモリワキエンジニアリングにエンジンを持ち込み、シリンダーヘッドの面研が行なわれた。その結果、ストレートスピードは若干向上したように見えた。

不二雄には、わかっていた。油冷機GSX-R750は熱ダレでパワーダウンしていたのだ。それが真夏の鈴鹿8耐で顕著になり、圧縮比を上げれば多少のパワーアップが望めても、それもエンジンが発熱すればパワーダウンしてしまう。根本的に熱ダレを解決しなければ意味がない……。

決勝は7月29日、天候は晴れ、気温32℃、観客数156,000人で行われた。ケニー・ロバーツ/平忠彦+ヤマハ初のTT-F1ファクトリーマシンFZR750の参戦で、大会は空前の盛り上がりを見せていた。ヤマハファクトリーが独走するが、午後6時58分にバルブが落ちてエンジンブロー。ホンダRVF750のワイン・ガードナー/徳野政樹が逆転優勝を果たした。ヨシムラは、大先輩グレーム・クロスビーと組んだK・シュワンツが3位で表彰台に上がった。喜多/辻本は6位。また、ヨシムラチューンのエンジンを搭載したSERTが5位、7位、スズキ・スウェーデンが8位と、熱ダレしたとはいえ、油冷GSX-R750はトップ10内に5台が入り、速さと耐久性のバランスが高いことを証明した。

そして辻本は、契約が決まって間もない頃(たしか2回目の本社訪問だった)POPが言った言葉を忘れていなかった。

「チャンピオンを獲ったらデイトナへ連れて行ってやる」

辻本は念仏のように「デイトナ、デイトナ……」と繰り返しながら、全日本TT-F1チャンピオンを目指して、1985年シーズンを突っ走って行った。

全日本を転戦するヨシムラのトラックはマシン、ホイール、パーツでいっぱい。マシンは左から#30 喜多TT-F3、#55 辻本TT-F3、#50 辻本TT-F1。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。