ヨシムラ・モリワキGSX1000SZ(カタナエンジン)を駆り1983年鈴鹿8耐でポールポジションを獲得したG・クロスビー。父親(POP)と娘婿・長女(森脇護・南海子)のコラボレーションは、後にも先にも、この1回だけ。ヨシムラとモリワキは、ファミリーであるけれどもライバルでもある。お互いを尊重しながら独自の道を歩む。

【ヨシムラヒストリー19】アメリカも世界も、新750cc時代が幕を開けた

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、Cycle World、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2022年4月20日

The Beginning Of New 750cc Rules

不二雄とYOSHIMURA R&D OF AMERICA(通称USヨシムラ)は、AMAスーパーバイク用の4バルブGSX1000SZ開発で、目まぐるしい1982年シーズンを送った。その少し前の1981年春、USヨシムラはノースハリウッド(ロサンジェルス)から、ロサンジェルス東部郊外のチノ市に移転した。チノ市はオンタリオやポモナに隣接し、リバーサイドにも近く、周辺には大小レーストラックがあり、工業団地という抜群の環境で、設備も充実していた(2001年に同じチノ市内のさらに広大な新社屋に移転する)。

1983年、ヨシムラは試練を迎えた。スズキがレース活動を縮小したのだ。さらに1983年アメリカに輸入される700cc以上のバイクの輸入関税が、4.4%から45%アップの49.4%に一気に引き上げられたのだ(向こう5年間有効だったが、1987年に早期終了)。日本製バイクを締め出す、母国アメリカ製ハーレーダビッドソンの保護策だ。これは、1000㏄クラスや750㏄クラスなど、ビッグバイクのマフラーを主力製品としていたヨシムラにとっても、大打撃だった。資金難に陥り、1971年以来続けてきたAMAにおけるレース活動を、初めて休止した。

AMAスーパーバイクは1983年にレギュレーションを変更し、排気量上限を1025cc→750ccへ引き下げた。ヨシムラのエースだったウエス・クーリーは、USカワサキへ移籍し、ウェイン・レイニーのチームメイトになった。750cc規定になり、マシンは一新。空冷のカワサキGPz750Rと、水冷V4のホンダVF750Fが一騎打ちになり、W・レイニーがチャンピオンになった。

また、日本メーカーは対米輸出で苦肉の策に出た。750ccから排気量を落としたGSX700Eなど、700ccクラスを対米輸出車として加えたのだ(おかしな話だ)。

1983年型GS1000Rは、アルミ角断面材を使ったダブルクレードルフレームで、リアサスペンションには、ショックユニット上下マウントをスイングアームに持つフルフロータータイプの1本ショックを採用していた。そのリアショックとANDF(アンチ・ノーズ・ダイブ・フォーク)付きフロントフォークは、KYB製ファクトリースペシャル。フロントのブレーキキャリパーはapロッキード。ホイールはカンパニョーロ製マグネシウム鋳造で、前後18インチ。エンジンはヨシムラチューンで、2プラグ化。マフラーはサイクロンだ(写真でサイクロンの特徴である集合部が、#1-2-4-3と爆発順に配置されているのが良くわかる)。

一方日本側のヨシムラである“ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパン”は、1983年スズキのレース活動縮小の影響で鈴鹿8耐も含めて、スズキからのサポートが無くなった。これは、1976年にスズキの横内悦夫氏とPOPが出会って“相互協力”の紳士協定を結んでから初めてのことだった。これまで車体はスズキが担当していたので、鈴鹿8耐に出場するにも困ったことになった。そこでファミリーが立ち上がった。モリワキが車体を担当したのだ。モリワキは、森脇護とPOPの長女・南海子が、三重県鈴鹿に設立したチューニングメーカーで、早くから独自のフレームを製作してきた。

モリワキは1979年鈴鹿8耐で大排気量エンジン用レーサーフレームをデビューさせた。1980年にはデイトナ200マイルや鈴鹿8耐など国内外のビッグレースでエディ・ローソン、グレッグ・ハンスフォード(以上USカワサキ)、デビッド・アルダナ、デビッド・エムデなどがモリワキレーサーを駆った。そして、それはいつしか“モリワキモンスター”と呼ばれるようになった。いずれもZ1/Z1000Jのカワサキのエンジンを搭載していた(ヨシムラがスズキと協力関係を結んでから、モリワキはカワサキと関係を強くした)。

1981年鈴鹿8耐で、オーストラリアの無名の新人ワイン・ガードナーが、驚異の2分14秒76のTT-F1コースレコードを樹立しポールポジションを獲得したとき、乗っていたのは、リブ付き角断面アルミ材を使ったダブルクレードルフレームとなったモリワキモンスターだった。これがいわゆるアルミモンスターで、対して1980年型以前は鉄モンスターと呼ばれるようになった。

そして1983年にモリワキがヨシムラに提供したマシンが、1982年型を発展させたアルミダブルクレードルフレームで、当時流行り出したリア1本サスではなく、トラクションを重視して、あえて2本サスを採用していた。こうしてモリワキフレーム+スズキGSX1000SZ(カタナエンジン)の“ヨシムラ・モリワキ・スズキ”チームが誕生し、モリワキフレーム+Z1000Jエンジンの“モリワキ・カワサキ”チームとは好敵手同士となった。

チームヨシムラ・モリワキ・スズキは、グレーム・クロスビー/ロブ・フィリス、モリワキエンジニアリングは、三上訓弘/八代俊二で鈴鹿8耐に臨んだ。モリワキは好走し、プライベーター最上位の6位に入った。

ヨシムラは、鈴鹿8耐前哨戦、鈴鹿200kmにこのNEWマシンを走らせ、G・クロスビーが、最終コーナー手前にシケインのできた鈴鹿の新コースでコースレコード2分25秒95をマーク。G・クロスビーは鈴鹿8耐予選で2分23秒11と、さらにレコードを更新してポールポジションを獲得した。しかし決勝は、シリンダーヘッドカバーからのオイルリークに悩まされて、12位でゴールした。

1983年鈴鹿8耐はスズキフランス(後のSERT)が優勝(#6 H・モアノー/R・ウバン)と5位(#5 P・E・サマン/D・ペルネ)を得た。チェッカー後、R・ウバンがH・モアノーを乗せてウィニングランを行った。そして2人は、スズキ初の世界耐久チャンピオンとなった(H・モアノーは1980年ホンダでもタイトルを獲っているから、自身2度目だ)。

優勝したのは、スズキフランス(エルブ・モアノー/リカルド・ウバン)のGS1000R(XR41)だった。このエンジンは、2バルブのGS1000ベースで、日本のヨシムラチューン。1気筒1プラグから2プラグに加工され、マフラーはサイクロン集合だった。このチームは、耐久チームでも十分なスピードがあり、スプリント耐久と呼ばれる鈴鹿8耐を制した初めての純耐久チームとなり、世界耐久選手権を制した。こうした世界耐久選手権を含むTT-F1は、1000cc時代を終え、1984年から750cc規定の新時代へ移行していった。

1984年鈴鹿8耐での#58 三浦/池田車(ライダーの三浦も作業)。クロムモリブデン丸パイプを使ったダブルクレードルフレームで、リア2本サスが特徴。フロントカウル、フューエルタンク(後端が垂直)、シートカウル(エンドが下がっている)など、外装も#12(アルミフレーム+フルフローター1本サス)とは大きく異なっている。前後サスペンションはKYB製で、フロントフォークには#12にあるANDFはない。キャブはミクニVM。

1984年、POPは全日本ロードレースへフル参戦を決めた。MFJが国際A級クラスにGP500、GP250、GP125に加えて、TT-F1とTT-F3を追加したのだ。1983年からノービスTT-F3が設立されているが、国内最高峰の国際A級では初。2ストロークの純レーサー主体のGPクラスと違い、4ストローク主体の市販車改造(エンジンのみ使用)クラスのTTフォーミュラクラスは、空前のバイクブーム到来にもマッチして、市販車の売り上げに大いに影響があった(特に400ccスポーツモデルだ)。1983年大会は鈴鹿8耐(世界耐久選手権・TT-F1)が13万9000人、鈴鹿4耐(ノービスTT-F3)が5万8000人の大観衆を集めたことも後押しした。GP偏重だったレース界に新しい風が吹き始めた。

1984鈴鹿8耐、#12 G・クロスビー(GSX750ES)は、序盤トップグループに付ける。足しか見えないがトップは#1 M・ボールドウィン。続いて#2 G・バルタン、#6 R・ロッシュ、#7 M・キャンベル、#3 G・コードレイとホンダRS750R勢に囲まれた。遠くにモリワキの#29 八代俊二。

この全日本フル参戦にあたっては、スズキファクトリーから、また以前のように車体(フレーム、サスペンションなど)、エンジン主要パーツ(クランクシャフト、ミッションなど)が提供された。ベースマシンはTT-F1がGSX750ES(空冷並列4気筒DOHC4バルブ、747cc)、TT-F3がGSX-R400(水冷並列4気筒DOHC4バルブ、398cc)だ。

ライダーは、三浦昇と池田直。三浦は1961年9月2日に青森県で生まれ、ヨシムラ入りしたのは22歳。1983年国際B級に昇格し、国際A級混走のGP250で、総合優勝を果たすなど圧倒的な速さを見せ、国際A級に昇格(国際B級チャンピオンは最終戦CDIトラブルで逃した)。池田は1958年7月23日に宮崎県で生まれた25歳。1982年、1983年に世界GP250にスポット参戦したライダーで、POPはGP250で培った2人のスプリント力に期待していた。

G・クロスビーは1984年鈴鹿8耐で、エンジンブローでリタイア。1982年いっぱいでGPから退き(ランキング2位だった)、以後ヨシムラ/モリワキ以外は乗らないと決めた。GPの“政治的・商業的な”駆け引きにイヤ気が差し、本当の家族のように接してくれるチームでのみ走ることにしたのだ。

けれども、TT-F1は上手くいかなかった。GSX750ESはG・クロスビーが、鈴鹿8耐のための前哨戦として参戦した鈴鹿200kmで3位に、日本GP(全日本)で3位になった他は、三浦の4位(3月の鈴鹿2&4)が最高だった。それどころか三浦、池田ともリタイアが多発した。GP250上がりで、4ストローク大排気量のエンジン特性(特にエンジンブレーキの強大さ)や、重い車重(GSX750ES:燃料抜き車重160~170㎏、1984年型TZ250:乾燥重量104㎏)、それに完璧とは言えないフレーム・サスペンションとエンジンのマッチングなど、不調の原因がいろいろあったのも事実だ。三浦は、ランキング7位に終わった。

一方TT-F1より軽量なTT-F3では、2人は好成績を残した。三浦は10戦して3勝、ランキング3位を得た。池田も1勝してランキング4位だった。

三浦昇はスーパーノービス、スーパー国際B級だった。そのスピードは、底知れぬ資質を感じさせたが、時にそれは諸刃の剣だった。あっという間に転倒してしまうのだ(フロントからがほとんどだ)。最後までTT-F1に馴染めなかった。一方TT-F3では、そのスピードを生かして3勝した。

鈴鹿8耐はアルミダブルクレードルフレーム(角断面、1本サス)をG・クロスビー/レン・ウィリングスに、鉄ダブルクレードルフレーム(クロムモリブデン丸パイプ、2本サス)を三浦/池田に託した。が、予選3位からスタートしたG・クロスビー/L・ウィリングスは82ラップで、三浦/池田も95ラップで、それぞれエンジンブローでリタイアしてしまった。

1984年は1年振りにAMAに復帰。マシンはGSX750E。開幕戦デイトナスーパーバイクのみ、G・クロスビーとW・クーリーが参戦した。が、その後はフル参戦とはいかず、W・クーリーだけが地元カルフォルニアラウンドのみに参戦した。それでもW・クーリーは、8月のシアーズポイント(ソノマ)で見事優勝した。

AMAスーパーバイクは、1984年に1年振りに復帰した。デイトナスーパーバイクにはG・クロスビーと、USカワサキから復帰したW・クーリーがGSX750Eで参戦した。だが、予選でエンジントラブルに見舞われ決勝を走れなかった。デイトナ200マイルではG・クロスビーが、2ストロークGPマシンのボアアップ版に乗るケニー・ロバーツらに交じって4ストローク(GSX1000SZ/1023ccエンジンをモリワキアルミフレームに搭載)で健闘し7位に入った。デイトナ以後は、地元カリフォルニアのレースだけW・クーリーが参戦し、リバーサイド2位(4月15日)、シアーズポイント優勝(8月18日)、ウィロースプリングス2位(9月16日)と、戦闘力の劣る空冷で水冷V4エンジンのホンダVF750F勢に一矢を報いた。ランキングは9位。チャンピオンは、1982年にヨシムラカタナにも乗った、ホンダのフレッド・マーケルだった。

1984年デイトナ200マイルには、G・クロスビーが参戦し、予選6位、決勝7位。マシンは1983年鈴鹿8耐仕様(リブ付き角断面アルミダブルクレードル+2本サスのモリワキフレーム)のボアアップ版で、4ストローク1025㏄規定を利用し、GSX1000SZで使っていたφ70.9×64.8mm、1023㏄を搭載した。

こうしてTT-F1(世界でも全日本でも)も、AMAスーパーバイクも750cc規定となって、ますます空冷ではパフォーマンスが劣る……新型が待ち望まれた。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。