スペンサーもローソンも走った!! バイク全盛期’80年代回想コラム・サーキット編

掲載日:2018年04月25日 トピックス    

文/吉村誠也  写真/ロードライダー編集部
記事提供/バイクブロス編集部
※この記事は『バイクブロス2018』に掲載された内容を再編集したものです

スペンサーもローソンも宮城も走った!! バイク全盛期'80年代回想コラム・サーキット編の画像

'78年から'80年まで、3年連続でGP500ccクラスのタイトルを獲得したロバーツと果敢にチャレンジしたスペンサーを始めとするライダーたちの闘いを頂点に相次いで発売された高性能バイクによる爆発的なレースブームが底辺を拡大していった。

3連覇のロバーツに対して真っ向から挑んだ
スペンサーが史上稀に見る'83年の激闘を制す

'70年代から'80年代へ。ロードレースの頂点に立つ世界GPに旋風を巻き起こし、新しい時代の幕を開けたのがケニー・ロバーツだった。

ライディングフォームもライフスタイルも、そしてパドックでの立ち居振る舞いも、すべてが斬新。GP初挑戦の'78年あたりはフライングポップコーンと呼ばれたりもしたが、'78、'79、'80年と3連覇を達成した頃からは『キング・ケニー』の呼び名が定着した。

ところがそのキングは、'81、'82の2年連続でスズキのワークスマシンを駆るマルコ・ルッキネリとフランコ・ウンチーニに破れる。そしてエディ・ローソンを援軍に、起死回生を図ろうとした'83年に繰り広げたのが、今やロードレース界の伝説ともいえるフレディ・スペンサーとの死闘だった。

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'83年に世界GPを引退したロバーツ(中央)は、同年に続き写真の'84年もデイトナ200マイルレースに出場した。YZR500の排気量を拡大したマシンで2連勝。前年2位のローソン(左)が4位、初出場だった平は(右)5位。この'84年が、2スト車が出場できた最後のデイトナ200だった

この年を最後に世界GPから退いたロバーツだったが、デイトナ200では'83、'84年と2連覇を達成し、'85、'86年には鈴鹿8耐に出場。人気絶頂の平 忠彦と組んだ'85年には、スタートミスで最後尾から追撃。3時間目からはトップを快走するも、残り32分にマシントラブルに見舞われマシンはコース上で停止……と、優勝こそ逃したももの、15万人を超える観客の目の前で、またひとつ新しい伝説を追加した。

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'84年に8耐へのワークス参戦を開始したヤマハは、'85年にFZ750改FZR750を投入。平/ロバーツ組という夢のようなペアは、最後尾スタートからトップに浮上の後、残り30分でマシントラブルという劇的なレースを展開した

キング・ケニー、ファースト・フレディ、ステディ・エディ、そして日本の平 忠彦ら、トップライダーというよりはスーパースターの活躍で、世界的にロードレースの人気が高まり、日本でもレースブームに火がついた。

レーサーレプリカと呼ばれるマシンが登場するのはもう少し後のことだが、それまでのストリートバイクとは異なり、市販車改造クラスのレースへの出場を想定したマシンが次々と市場に投入され、ブームに輪をかけた。

先に書いた15万人超の8耐観客数よりも驚くべきは、そのサブイベントでロードレースの登竜門的存在だった鈴鹿4耐に、600台のエントリーが集まったということだ。祭典であり甲子園でもあると言われたゆえんだが、そんな参加者数の爆増は4耐に限らず、国内のどのレース、日本中のどこのサーキットでも見られた。

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かつては『ノービスの祭典』や『バイク乗りの甲子園』などと呼ばれた鈴鹿4耐。'83年優勝の#2宮城光を始め、著名コンストラクター、ヨシムラとモリワキにとっても重要なレースのひとつとなっていた。写真は当時のPOP吉村(故人・左)と森脇 護(右)の両社社長

市販車改造ではなく、RS125RやTZ250/RS250Rなどの市販レーサーのユーザーも爆発的に増加した。百数十万円のマシンのほか、タイヤ、パーツ、工具、備品、トランスポーターなどを合わせ、移動費や宿泊費まで含めると年間数百万円に達する。

それを、二十歳そこそこの若者が、多くは借金だったとはいえ、どうにか調達でき、レースに出られたというのも、今では驚きというほかにない。

携帯電話もインターネットもない時代。練習のためにサーキットを走るのもひと苦労だった。スポーツ走行予約の電話がずっと話し中で、つながったときにはすでに満杯だった(頻繁にあった実話)とか、サーキット脇の公衆電話からかければつながりやすい(都市伝説の一種?)とか、走行枠の貸し借りや売り買いが行われていたなどなど、その手の話は枚挙にいとまがない。

筑波サーキットのトイレにあった掲示板のことにも触れておこう。そこには、マシン、パーツ、タイヤの売りたし/買いたしの貼り紙がずらりと並んでいたし、中にはヘルパーします、当方19歳○○専門学校生+固定電話番号……てなのもあった。

そんなこんな、日本中が熱病にうなされたようなレースブームの真っ只中に、彗星のごとく現われたのがここに紹介の宮城 光ら、スーパーノービスと呼ばれたライダーたちで、やがて彼らはメーカー契約ライダーとして、日本のロードレースを背負っていく。

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その'83年4耐の参加車両。左から順に、カワサキの社内チームであるチーム38のカワサキGPz400、優勝した宮城光/福本忠組のモリワキ・ホンダCBX400、ヨシムラ・スズキGSX400FW。さすがにワークスマシンこそ投入されなかったが、キットパーツの開発やチューニングデータの提供など、メーカーの強力なバックアップもあった時代

'80年代も後半に入り、さらにレース界の底辺が広がると、そこから頂点を目指す者の数も増える。'90年代に世界GPの各クラスのトップコンテンダーとして活躍した伊藤真一、岡田忠之、ノリック、青木3兄弟に原田哲也、上田 昇、坂田和人……といった面々がレースデビューしたのも、'80年代のロードレースブームがあってのこと。

国王本人が大のバイクマニア&レースファンで、モトGP主催者のドルナのお膝元でもあり年間3戦を開催する近年のスペインが、やはり多くのトップライダーを生んでいるのにも似て、'80年代の日本は、世界でも稀に見る熱狂的なバイク王国だったのだ。

ここ近年、当時モノのレーシングマシンを往年のライダーが走らせる系のイベントが人気を博しており、それ用に復元されたマシンも多い。どこかでそうしたシーンを見る機会があれば、マシンとライダーだけでなく、ぜひ、それらが活躍した'80年代に思いを馳せ、懐かしんでもらいたい。

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