掲載日:2009年12月11日 特集記事 › AMAスーバーバイクの輝きを再び! Z1000 R&J
記事提供/2009年8月1日発行 月刊ロードライダー 8月号
Photo/Dan Mahomy、Rich Chenet、Gary Van Voorhis
Text/中村友彦
エディ・ローソンとはどんなライダーだったのだろうか。当時を知る人たちに話を聞くと、「ここ一発の速さは格別だった」、「めったなことでは闘志を表に出さないんだよ」、「口の悪い皮肉屋」なんていう答えが返ってくる。どうも我々が考えるアメリカ人のイメージとかけ離れているようだが……、それはともかく、‘80~‘90年代にかけてエディが残した実績は、当時も現在もそして今後も、レーシングヒストリーの中で燦然と輝き続けることになりそうだ。
1958年生まれのエディは、7歳からバイクに乗り始め、12歳で初レースを体験。最後のプロレースは‘94年のデイトナだから、ライダーとしての活動期間はほぼ四半世紀ということになる。その中でエディは、世界GP500cc=01年までの最高峰クラスで、‘84/‘86/‘88/‘89年と4度もシリーズチャンピオンを獲得し、‘86/‘93年にはデイトナ200優勝、‘90年には鈴鹿8耐制覇という偉業を成し遂げている。
しかしZ系ユーザーにとってのエディ・ローソンと言ったら、やっぱりカワサキZを駆った‘80~‘82年のAMA時代だろう。今となっては世界へ羽ばたくためのステップとも取れるこの時代だが、まだ二十歳そこそこでワークスに抜擢されたエディの大活躍は、Zの強さを多くのライダーに印象づけることになったのだから。
‘79年末にUSカワサキ入りしたエディは、‘80年からAMAスーパーバイクへのフル参戦を開始。マシンはZ1シリーズの最終型となるKZ1000Mk=で、当時のエディはビッグバイクの経験がほとんどなかったものの、第2戦での優勝を皮切りに好成績を収め、初年度からシリーズランキング2位を獲得する。
翌‘81年はマシンを発表されたばかりのKZ1OOOJにスイッチ。Z1~Mk=の基本構成を踏襲しながら、ほぼすべてのパーツを一新してレーサーベースとしての資質を磨き上げたJを得たエディは、名チューナーとして知られるロブ・マジーと共にその能力をきっちり引き出し、参戦2年目にしてシリーズチャンピオンを獲得。自身の資質とKZ1000Jの優秀さを全米に証明して見せることとなったのである。
この勝利を記念して、‘82年を迎えたカワサキはエディ・ローソンレプリカたるKZ1000R(KZ1000J2ベースの公道モデル)、市販レーサーKZ1000S1を発売。当のエディはそういったカワサキの評価と期待に応えるかのように、‘82年のAMAでも5勝をマークし、スーパーバイク2連覇を達成した。
こうしてカワサキとの蜜月時代を築いたエディだが、‘83年になるとケニー・ロバーツからの誘いを受けて世界GP参戦を開始。以後のエディはカワサキとは緑がなくなったものの、KZ・Rシリーズはスーパーバイクレプリカと名前を変えて、‘83~‘84年にも継続販売が行われた。
前述したように、エディにとってのAMAスーパーバイクは、キャリア全体を通して見ればひとつの通過点に過ぎないけれど、多くのZ乗りがそうであるように、エディの中でも‘80~‘82年は忘れられない時代のはずだ。何と言ってもエディは、今でもフレームナンバー21のKZ1000Rを所有しているんだから。
やりづらい男だったよ。
「シリーズタイトルを取るためなら何でもする。エディはそういう男だったね。いい例が‘80年のAMA最終戦で、予選でエンジンが壊れたのに、アルダナのバイクで出てきちゃうんだから。でも速さは当時から一級品で、いずれ世界に行くだろうなって思ってたよ」
ヨシムラジャパン代表.吉村不二雄
当時、ライバルチーム・ヨシムラスタッフ
内に秘めた熱さは人一倍
「他のアメリカ人みたいにバカなことはめったにやらないし、普段はすごく冷静なんだけど、ここ一発の速さを見ると、ああ、すごいガッツを内に秘めたヤツなんだなぁと思いました。CB-F+フレディとの壮絶なバトルは、見ているほうとしてはすごく楽しかった」
ビトーR&D代表・美藤 定
当時、フレディ・スペンサーのメカニック
頭のいいライダーだった。
いつも冷静で大人しいけど内に秘めた熱さは人一倍
「派手さはないけれど、スムーズにマシンを操って、ふと気がつくと先頭集団で走っている。誰か名づけたかは知らないが“Steady Eddie”とはよく言ったものだ。スペンサーやクーリーが肉食派とすれば、エディはベジタリアン。とにかく、頭のいいライダーだった」
フォトグラファー・木引繁雄
‘73年より海外取材を続ける、レーシングカメラマン
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