『バイク乗りの勘所』

私でさえ嫌なのだから…

掲載日:2013年11月11日 タメになるショートコラム集バイク乗りの勘所    

Text/Nobuya YOSHIMURA

たま~に、土日にクルマで郊外の国道を走っていると、ツーリング中のバイク集団と遭遇することが多い。実は私、それがたまらなく嫌なのだ。なぜ嫌なのかと言うと、人にはあまり見せたくない自分の恥部を覗き込んでいるような気分になるからだ。ウルサい、小汚い、危なっかしい…と、それだけなら我慢できるが、自己顕示、傍若無人、横行闊歩、厚顔無恥といった四文字熟語がお似合いの方々が群をなしていると、ただただ早く目の前から去ってくれるのを願うしかない。

自分もバイクに乗っているときは、傍からこういうふうに見られているのかもしれないな…。いや、自分がバイク乗りだからこそ、嫌なところが目につきやすいのだろうか…。乗っていない人は、良くも悪くもバイクに関心がないから、嫌な感情もこんなに強くないんじゃなかろうか…。などなど、いろんなことを考えてみる。だが、ひとつ確かに言えるのは、嫌な気持ちの根源にあるのは不快感であり、不快かどうかを決めるのは、行為を受けた側であって与える側ではないということだ。

この程度の音なら大丈夫だろう…と、乗り手が勝手に思っていても、まわりのクルマのドライバーや沿道の住民が同じように思ってくれるとは限らない。この走りなら迷惑にはならないだろう…もまた然り。加えて言うなら、あなたは自分1人のつもりでも、まわりのクルマや沿道の住民は、あなたの仲間や同類による不快行為を延々と受けているかもしれないのである。そして彼らの目には、不快感の原因が乗り手の不注意や偶然によるものだとしても、すべて故意に映ってしまう。

道路を“走らせてもらっている”、集落を“通過させてもらっている”、すり抜けや追い越しを“させてもらっている”という意識は最低限必要だし、逆の立場に立ったときに自分がどう感じるかを想像してみるべきだ。重ねて言うが、沿道の住民の場合、その環境から容易に逃げ出せないのである。人の楽しみを奪う権利は誰にもないはずだが、それ以上に、自己の楽しみのために人に不快感を与える権利はない。この点をよく考えて、マシンの整備や走りを見直していただきたい。

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