【ヨシムラヒストリー34】スーパーバイク 4気筒 1000cc 新時代の主役 GSX-R1000

2004年型全日本JSB1000仕様のヨシムラGSX-R1000(渡辺篤車)。2004年JSB1000のレギュレーションが変更になり、エアファンネルやカムプロフィールが自由に変更できるようになった。マフラーはTri-Ovalチタンで、この年から4-2-1集合を採用。前後16.5インチタイヤを使う。(Yoshimura Archives)

1999年、2000年と全日本と鈴鹿8耐を750cc4気筒のスーパーバイクではなく、X-FormulaクラスのGSX1300Rベースの隼レーサー“X-1R”で戦ったヨシムラ。その挑戦は、ファンから想像以上の大反響があった。そして挑戦2弾として2001年もX-Formulaにエントリー。ベースマシンは発売されたばかりの新型GSX-R1000(2001年発売)。GSX-R1000は4気筒1000cc時代の到来を告げるマシンで、2003年からのSBK(スーパーバイク世界選手権)とAMAスーパーバイクの4気筒1000cc解禁(それまでは4気筒750cc、2気筒1000cc)をにらんでレーサーベースとして開発されたスズキ期待のマシンだった。

2001~2004: New Era Of GSX-R1000s

2004年型AMAスーパーバイクのチャンピオンマシン、スズキGSX-R1000(M・ムラディン)。ヨシムラR&Dは基本的にスズキのファクトリーマシンを使い、エンジンなどを独自チューンするので、ヨシムラジャパンとはスタンスが異なる。マフラーはUSヨシムラ管でRS-3チタン。同じSHOWAのフロントフォークでも日本がφ45mmなのに対してUSはφ47mm。GSX-R1000のSB仕様でもいろいろ違いを見せる。(Tomoya ISHIBASHI)

ヨシムラは改造制限のないX-Formulaを選んだ。2001年もNK1とX-FormulaでS-NKクラスとしてチャンピオンシップポイントが与えられる(レースはSB=スーパーバイクと混走)。全日本は出口修がS-NKクラスのランキング3位を得た。鈴鹿8耐は出口/ショーン・ジェイルス/川瀬裕晶で臨み、12番グリッドからスタートしたが、僅か2ラップで転倒リタイアとなった。

TORNADO S-1は最高出力170㎰(125kW)以上/12000 rpm、最大トルク11kgf-m(107.9N-m)以上/10000rpm。STDも+10㎰以上で、車重はSTDの-10kg(STD乾燥重量170kg)。大した差がないように思えるが、トータルバランスが非常に高く、まったくの別物で、究極のロードゴーイングレーサーだ。(Yoshimura Archives)

2002年1月、ストリート向けコンプリートTORNADO S-1を発売した。これはGSX-R1000ベースで、X-Formulaレーサーに限りなく近づけたチューニングが施され、フェアリングはこのS-1/S-1R=レーサーのためにデザインされたものだ。ヨシムラのコンプリートは、これまでTORNADO 1200 Bonneville(1987 年。油冷GSX-R1100ベース。3台限定)、HAYABUSA X-1(2000年。GSX1300R隼ベース。100台限定。256万円)、KATANA 1135R(2001年:5台限定。358万円)とあって、このS-1(50台限定。378万円)で4台目だった。なお、コンプリートは2003年のM450R:13台受注生産・119.8~198.8万円、2004年にTORNADOⅢ零-50:5台限定・800万円と続いていく。

2002年の全日本の最高峰クラスは、SBとS-NKに加えてプロトタイプ(PT)が設けられ、MotoGPマシン(スズキGSV-R、カワサキZX-RRなど)が混走した。ただし、賞典外(ノーポイント)で、例えばPTが総合1-2位で、SBが3位だった場合、全日本ポイントは総合3位のSBに1位のポイントが与えられる。

2002年鈴鹿8耐仕様のTORNADO S-1R(RTクラス)。マフラーはトライオーバルなどを試した結果、ライダーが好感触だと判断してショート管のトライコーンを選択した。(Yoshimura Archives)

全日本は芹沢太麻樹を起用した(1995~1997年のヨシムラライダーだった)。芹沢は総合順位で4位、7位、8位、7位、5位、4位、5位、リタイア、4位と好走。MotoGPマシンやファクトリーSBマシンがいる中で、コンストラクターとしては善戦した。SB(4気筒750cc、2気筒1000cc)はスズキファクトリーの渡辺篤(GSX-R750)、JSB10000/S-NKタイトルは山口辰也(ホンダCBR954RR/JSB1000クラス)に決まった。鈴鹿8耐はPT、芹沢/武石伸也での参戦で、9番グリッドからスタートしたが、146ラップでリタイアした。

2003年の全日本はJSB1000(4気筒600~1000cc、3気筒750~1000cc、2気筒850~1200cc)がメインとなり、S-NKと従来のSBが混走となった(S-NK、SBは2002年いっぱいで廃止)。JSB1000(ジャパンスーパーバイク)は、世界基準の新SB規定(SBK、AMAなど)とほぼ共通だ。全日本へはJSB1000での参戦で、レギュラーライダーに前年SBでチャンピオンに輝いた渡辺を起用した。もちろんマシンはGSX-1000(K3)。

結果は、JSB100クラス(総合)でランキング2位。チャンピオンはスズキファクトリーの先輩、北川圭一(KENZトラストレーシング・GSX-R1000)だった。

鈴鹿8耐は渡部/加賀山就臣で、JSB1000クラスで臨んだ。が、スタート2ラップ目の1コーナーでオイルによる多重クラッシュ。残念ながらヨシムラのマシンもこの中にいた(1ラップでリタイア)。

2000年デイトナ200マイル初優勝を果たしたM・ムラディン(GSX-R750)。ヨシムラスズキのデイトナ200マイル制覇は1988年のK・シュワンツ以来12年振りだった。彼は1993年にカジバでGP500に挑戦。AMAスーパーバイクでは1996年にヨシムラスズキ入りしランキング4位。1997年はFBFドゥカティで3位。1998年にヨシムラスズキに復帰し3位。以来引退までヨシムラスズキで1999~2001年、2003~2005年、2009年と7度AMAスーパーバイクチャンピオンに輝いる(もちろん最多記録だ)。(Tomoya ISHIBASHI)

一方AMAでは、1999年にマット・ムラディンがスーパーバイク(4気筒750cc、2気筒1000cc)でチャンピオンを獲得。これはヨシムとスズキにとって1989年ジェイミィ・ジェイムズ以来の素晴らしい出来事だった。また、750スーパースポーツでもトム・キップがチャンピオンとなっている。

2000年、M・ムラディンは初めてデイトナ200マイルを制した。2位ニッキー・ヘイデン(アメリカンホンダRC51)との差は、僅か0.011秒だった。さらにM・ムラディンは2年連続でAMAスーパーバイクチャンピオンを獲得。750スーパースポーツではジョン・ホプキンス(GSX-R750W/Y)がタイトルを獲った。彼は後にスズキ・カワサキのMotoGPライダーとして活躍した。

2001年はデイトナ200マイルでM・ムラディンが2連覇し、AMAスーパーバイクでも3連覇と、彼とEFIを装備したGSX-R750は無双状態だった。さらにFormula XtremeではJ・ホプキンスが、750スーパースポーツではジミー・ムーアがタイトルを獲得した。

2002年は、AMAスーパーバイクではアーロン・イエーツがランキング5位、M・ムラディンは7位に終わった。一方600スーパースポーツではA・イエーツ(GSX-R600)が、Formula Xtremeではジェイソン・プリッドモア(GSX-R1000)が、750スーパースポーツではJ・ムーアがチャンピオンを獲得した。

B・スピースは2003年にヨシムラスズキ入り。AMAプロレースへの本格的なデビューは2000年(サテライトチームのバルボリンスズキから)。当時から肘を張った独特なライディングフォームで注目された(後にエルボーズがニックネームに)。2010~2013年はMotoGPにフル参戦。ちなみにSpiesはスピーズではなくスピースと発音すると彼の母親が教えてくれた。(Tomoya ISHIBASHI)

2003年、AMAスーパーバイクでも4気筒1000ccが解禁され、GSX-R1000スーパーバイク仕様が登場した。スーパーバイクではM・ムラディンは2年振り4度目のチャンピオンを奪取し、ランキング2位にA・イエーツ、4位にベン・スピースとヨシムラスズキGSX-R1000がシリーズを圧倒した。Formula XtremeではB・スピース(GSX-R1000)が、スーパーストック(旧750スーパースポーツ)ではジョシュ・ヘイズ(GSX-750)がチャンピオンとなった。

2004年の全日本は、渡辺がJSB1000でランキング7位(GSX-R1000)。鈴鹿8耐は渡部/加賀山(FIMスーパーバイク車両)が4番グリッドからスタートし、転倒やセーフティカーが入るなど荒れた展開の中、見事2位となった。鈴鹿8耐での表彰台は1988年ケビン・シュワンツ/ダグ・ポーレンの2位以来、実に16年振りの出来事だった。

2004年鈴鹿8耐の夕刻、チェッカーフラッグを目指しシケインを行く加賀山。そしてヨシムラが16年振りに鈴鹿8耐の表彰台に戻って来て(2位)、嵐のような大歓声で迎えられた。やはり鈴鹿8耐でヨシムラは主役でなければならない。(Yoshimura Archives)

一方AMAスーパーバイクでは、M・ムラディンがデイトナ200マイルに優勝し、シリーズで見事にチャンピンを獲得した。

そして2004年、ヨシムラは創業50年を迎えた。1954年にPOPが福岡の雑餉隈(博多区南部)で兄の鉄工所の片隅を借りて始めた小さな吉村モータースから、4ストロークチューニングの熱いヒストリーがスタートしたと言っていい。今や日本(ヨシムラジャパン)とアメリカ(ヨシムラR&Dオブ・アメリカ)に拠点を構える世界屈指のチューニングメーカーになったのだ。CNCでパーツを精密加工し、カムもコンピュータで設計する現在だが、パイプに砂を詰めバーナーであぶって手曲げしてマフラーを作り、バルブをボール盤にくわえて手で磨いた作業を決して忘れることはない。それらのこと1つ1つがチューニングの原点であり、その情熱は既存の理論を超えて行くパワーなのだと信じている。

“I’ve Got The Power !”

2004年のM・ムラディン。2003年にGSX-R1000が走り始めてから引退する2009年いっぱいまで、ヨシムラスズキの後輩B・スピースとAMAスーパーバイクを完全に支配した。(Yoshimura Archives)

P.S.その後AMAスーパーバイクでは、M・ムラディンが2005年と2009年にもチャンピオンとなり、計7度のタイトル獲得はもちろん最多。B・スピースも2006年、2007年(この年はスーパーストック:1000ccのダブルタイトル)、2009年と3年連続AMAスーパーバイクチャンピオンに輝いた。また、2017年にはトニー・エリアスがタイトルを獲った。マシンはもちろんGSX-R1000だった。

鈴鹿8耐では2007年(加賀山/秋吉耕佑)と2009年(酒井大作/徳留和樹/青木宣篤)に優勝。2007年優勝は1980年以来、27振りの頂点だった(計4度優勝)。

EWC(FIM世界耐久選手権)では、1980年からSERT(スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)にエンジンなどを供給してきたが、ヨシムラ主体のヨシムラSERTチームになってからも(スズキのファクトリーマシン丸ごとヨシムラで製)、2020年、2024年に世界チャンピオンを獲っている。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。