1980年デイトナスーパーバイクスタート。ポールポジションは#8 F・スペンサー(アメリカンホンダCB750F改・1025cc)。#34 W・クーリー(ヨシムラGS1000S・ホワイトベースのVetterカラー)、#21 E・ローソン(USカワサキKZ1000MKⅡ)、#97 R・ピアース(アメリカンホンダCB750F改・1025cc)、#302 G・ハンスフォード(USカワサキKZ1000MKⅡ)、#31 H・クリンツマン(レースクラフターズKZ1000)、#162 P・イーガン(モリワキZ1R-Ⅱ)。#316 G・クロスビー(ヨシムラGS1000S)はセカンドウェイブだから、この時点ではスタートすら切っていない。

【ヨシムラヒストリー15】デイトナ3連覇を救った、秘策のクランクシャフト

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパンCycle World、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2021年7月8日

1980 Crank up!!

POPは、怒っていた、滅多に口にしない酒をあおりながら。理由は、1980年シーズンからAMA(American Motorcyclist Association)スーパーバイクに、アメリカンホンダが巨大ファクトリーチームを送り込んで来るからだった。エースは天才フレディ・スペンサー。18歳になったばかりだった。スティーブ・マクラフリンをアドバイザー兼ライダーに起用し、ロン・ピアース、マイク・ボールドウィンと元ヨシムラライダーをそろえていた。さらにジョー・美藤とマイク・ベラスコのメカニック2人もアメリカンホンダに移籍した。マシンはHRC製TT-F1レーサーRS1000をベースにしたCB750F。USカワサキもアメリカンホンダには及ばないが、1979年シーズンより本格的なファクトリーチームを結成していた。ライダーはダートトラック上がりのルーキー、エディ・ローソンで、マシンはZ1000MKⅡ(北米名KZ1000MKⅡ)だ。

AMAスーパーバイクは、“仲間”で作り、“仲間”で競い合ってきたレースだ。レギュレーション作りから始まり、何もかも“仲間”でやってきた。競り合ってはいるけれど、ライダーやチームの間でも連帯感があって、“仲間”には秘密もなかった(チューニング方法などもだ)。ビジネスとマネーとか、ある意味でアメリカらしい割り切りに対して、クラブとかファミリーとか、そういった古き良き、変わらないアメリカを体現している。それがAMAスーパーバイクの世界だった。そこへメーカーの大資本が入ってくる、ビジネスの論理と圧力が支配する。それは“仲間”の世界とは、大きく違う。POPは、それを嘆いていた。

でも、一方で、そう来るならやってやろうじゃないか、という反骨魂が沸いてくるのだった。

AMAスーパーバイクは、レギュレーションも変わった。それまで1000㏄までだった最大排気量が1025㏄まで引き上げられたのだ。これは大人気のZ1000(北米名KZ1000)が1015ccで、それを補修用でボアアップしても大丈夫なように、余裕を持たせて1025ccとしたのだ。また、レーサークラス最大排気量クラスであるフォーミュラ・ワンでは、2ストロークも4ストロークの市販車・市販レーサーも750ccまでだったが、それが2スト・リストリクタープレート付きは750ccまで、2スト・吸入制限なしは500ccまで、4ストは1025ccまでとなったのだ。これによってレーサーフレームのTT-F1ファクトリーレーサーGS1000R(φ70×64.8mm、997c)を、φ70→70.9mmにボアアップして1023ccユニットを搭載したAMAスペシャルマシンの投入が可能になったのだ。

これは不二雄の溶接クランクを参考に製作されたスズキ本社製のファクトリーマシンXR69用溶接クランク。STDクランクと大きく異なるのは1次減速ギアがヘリカルギアからスパーギアのなっていることだ。STDは騒音(ギア鳴り)を軽減するためヘリカルギアだが、XRパーツは強度と伝達効率を優先してスパーギアを選択したのだ。

また、1980年は世界選手権も大きく変わった。耐久レースが世界選手権に昇格し、鈴鹿8耐も世界選手権の重要な1戦として開催されることになったのだ。FIM(Fédération Internationale de Motocyclisme:国際モーターサイクリズム連盟)は、耐久世界選手権をTT-F1(ツーリスト・トロフィー・フォーミュラ・ワン)で行うことを決定した。TT-F1は4スト601~1000cc、2スト351~500ccの、いずれも一般市販車のエンジンを使い、車体回りは自由という、改造範囲が広いプロダクションレースで、鈴鹿8耐でも1979年(第2回)の車両規定の一部に導入されていた。スズキもスズキフランスを中心とした本格的な耐久チームを結成(ドミニク・メリアン前監督が率いたSERT:スズキ・エンデュランス・レーシング・チーム)し、ヨシムラチューンのGS1000エンジンを搭載したGS1000R(XR69・997cc)を使う。もちろんヨシムラも鈴鹿8耐参戦時にはXR69を走らせる。

AMAスーパーバイクには、カウル付きの新型GS1000Sで参戦することになった。カウルはSTDのハンドルマウントから、ハンドリングへの影響がないようにフレームマウントとした。これでハンドル切れ角はかなり規制されるが(レーサーとしては充分だ)、ハンドルのヘッドライトケースのゼッケンが付かないため、純レーサーと同じく、ホイール&タイヤ、フロントフォーク、三つ又、ハンドルだけがマウントされ、ハンドル回りの慣性モーメントは必要最小限でハンドリングは軽快になる。

けれども新型GS1000Sは、大きな問題を抱えていた。クランクシャフトだ。組み立てクランクのクランクピンの圧入部が、主にエンジンの高回転化で緩んでしまうのだ(クランクの芯振れが起こり、振動が出て壊れる)。実は以前からGS1000の組み立てクランクは問題があって、1979年シーズンのスズキ本社が圧入部を強化したスペシャルクランク(Suzuki Super Lockと呼ばれた)を、ヨシムラは採用していた。しかし、さらなるパワーアップに耐えられなくなったのだ。デイトナ(AMAスーパーバイク開幕戦)入りしてから、新たに対策されたスズキ本社製スペシャルクランクは、ことごとく破損した。スーパーバイクではエースのウエス・クーリーに加えデビッド・アルダナ、そして助っ人グレーム・クロスビーのために3名6台を用意しなければならず、フォーミュラ1用のGS1000R(XR69の1023cc仕様)もあるから、日本からの派遣(浅川邦夫メカニック)も含めて6名にメカニックと不二雄を合わせた7名では、“大変”なんてもんじゃなく、それこそ不眠不休の戦場だった。デイトナは夜8時で閉鎖されガレージから追い出されてしまうため、続きはモーテルに持ち帰っての作業となった。部屋のベッドをどけてクランクを対策品に組み替える。そんなコトはヨシムラでは当たり前だったが、この1980年は特別に過酷で、徹夜が続いた。

XR69の組み立てクランクは、圧入されたクランクピンに一部を溶接してある。全周ではなく、部分だということが熱歪みを最小に抑える秘訣か。もちろん分解しての整備は不可能で、使い捨てになる。

クランク対策? 実は不二雄は危惧していた。その為、STDの組み立てクランクのクランクピンを溶接した物を3本用意していたのだ。クランクピン圧入部を溶接すれば当然ねじれ強度は上がるが、溶接の高熱による熱歪み等で、クランクのバランスが崩れてしまう。それでも壊れては仕方がないので、多少のバランスの悪さは無視して、この際強度優先。不二雄の用意した溶接クランクは見事機能した。

デイトナでは、もう一つ大きな問題があった。G・クロスビーだ。G・クロスビーは、1978、1979年モリワキでの活躍が認められて、1980年からスズキGB(グレートブリテン)からGP500へ参戦することになっていた。デイトナへの参戦に関して、不二雄は正式に契約した。しかし、スズキGBのスポンサーであるチャンピオンスパークプラグ側からは、G・クロスビーがヨシムラからデイトナへ参戦するのは契約違反だという。ヨシムラR&DのテクニカルスポンサーはND(日本電装・現デンソー。スパークプラグや電装部品メーカー)で、一方スズキGBはチャンピオンスパークプラグだ。だから走るからには、NDのステッカーをマシンに貼るわけにはいかないという。この事をチャンピオン側が言ってきたのは、予選のヒートレースが始まる直前だった。結局、G・クロスビーはヨシムラ“スズキ”のライダーだから問題なし(半ば強引に!)、マシンのNDステッカーもそのまま貼って良しにした(ヒートレース、スタート10分前)。

ベアリングもスペシャル。これは右エンド部のボールベアリング。ベアリングは日本のKoyo製で、現在はパワステなどで有名な(株)ジェイテクトのベアリングブランドになっている。

予選のヒートレース(エントリーを2組に分ける)の結果、何とG・クロスビーのスターティンググリッドがセカンドウェイブの49番手(60台出走)になってしまった。デイトナではラップタイムの速いファーストウェイブと、遅いグループのセカンドウェイブの2つに分け、セカンドウェイブは10秒の時間差と100mのハンディキャップを背負ってスタートする(最初から勝ち目はないのだ)。実は、スターティンググリッドを決めるヒートレースでD・アルダナとG・クロスビーで1-2位だったのだが、チェッカーフラッグを受けた後(フィニッシュライン。グランドスタンド前の18度バンクにある)、計時ライン(1コーナーにある)を通過せずに、ピットロードを逆走して帰ってしまったのだ。このため2人はリタイア扱いになって、スターティングリッドを下げられたのだ。何ともD・アルダナとG・クロスビーらしい失態だが、もったいない。

決勝は、ヨシムラのW・クーリー(GS1000S)と、ホンダのF・スペンサー(CB750F改)のトップ争いになったが、10ラップ目には何とセカンドウェイブからスタートしたG・クロスビーが追い付いてしまった。が、直後にW・クーリーはクランク破損でリタイアしてしまう。D・アルダナはフロントタイヤのパンクで6ラップ目にリタイアしていたから、頼みの綱はG・クロスビーだった。G・クロスビーは、10ラップ目にF・スペンサーのガス補給でトップに立つが、逆に13ラップ目にG・クロスビーがガス補給に入り、F・スペンサーにトップを奪われる。そして15ラップ目にF・スペンサーを抜き、コースレコードをマークしながらスパート。26ラップ、100マイルを走り切り、自身デイトナ初参戦にして初優勝。同時にヨシムラにデイトナスーパーバイク3連覇をもたらした。2位はF・スペンサー、3位は同じくホンダのR・ピアース。デイトナスーパーバイクは前年1979年から50→100マイル(26ラップ)に延長されていて、100マイルになったからこそG・クロスビーの大逆転が可能になったともいえた。

そして1ラップダウンながら4位には徳野政樹、5位にはパット・イーガンのモリワキコンビ(Z1000R)が入った。1980年デイトナスーパーバイクは、ヨシムラ・モリワキファミリーにとって、これ以上ない成果だった。

後年に整備中のXRクランク。見えているローラーベアリングもスペシャルパーツ。バランス取り・軽量化のために開けられた孔は、緻密に計算されたもの。

スーパーバイク決勝は金曜日に行われたが、日曜日のデイトナ200マイルでもD・アルダナ(GS1000R・1023cc)が4スト勢最上位の6位に入った。また、W・クーリーが2スト勢(YZR750、TZ750D)を従えてトップも走ったことも、大きな出来事だった(W・クーリー、G・クロスビーはリタイア)。
このデイトナ後、スズキ本社は不二雄の溶接クランクを参考に、XRパーツ(ファクトリーマシンにだけ使われる。XRはスズキファクトリーマシンの呼称)を製作した。溶接した組み立てクランク&コンロッド、各ベアリングがセットだった。そして激動の1980年は、このデイトナの奇跡だけに留まらなかった。そう、時代は急加速して、当事者たちですら、遅れまいと必死だった。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。