1980年鈴鹿8耐優勝マシン#12GS1000Rの#4ピストン。φ70mm鋳造で、コンプレッションリング1本+オイルリング1本の2本リングタイプ。

【ヨシムラヒストリー16】鈴鹿8耐2勝目を勝ち取った“決断と強運”

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、Cycle World、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2021年8月20日

1980 A man with a destiny.

1980年6月、マン島。POPとグレーム・クロスビーは、怒っていた。正確には、POPは主催者にクレームを提出し、言い知れない不条理で、はらわたが煮えくり返り、G・クロスビーは、素朴なニュージーランド人として納得できない何かを感じていた……。

スズキGBからRGB500でセニアTTに出場したG・クロスビーは、文句なく優勝した。問題は、GS1000R(XR69)で参戦したTT-F1(ツーリスト・トロフィー・フォーミュラ・ワン)だった。10秒差の2位だった。優勝はホンダRS1000のミック・グラント。TT-F1は、1ラップ60.72kmの島の公道コースを6ラップして争われる。途中、給油は2回。ところがM・グラントは、1回で済ました。これには“秘密”があった。レギュレーションでは24Lフューエルタンクなのだが、M・グラントのRS1000には28Lタンクが装着されていて、それを規定の24Lに合わせるために、ピンポン玉を入れて容量調整したのだという。仮に“大容量”ならば給油1回も可能なのだ。この何とも怪しげな説明に納得するわけもなく、他チームからもクレームが出されていた。M・グラントは容量を小さくしようとしたのか、タンクをぼこぼこ叩いていた(G・クロスビーが確かに目撃した)。けれども、M・グラントはマン島の英雄、結果は覆るはずもなかった。うんざりした。

テキサコ・ヘロンカラーのGS1000R(#11はG・クロスビー車)。マン島TTはイギリスの一大イベントで、スズキGB(グレート・ブリテン)にとって重要なレース。POPと孫のようなスズキGBのメカニック、サイモン・タンジ。彼はこの時まだ10代だったが、20代半ばにペプシ・スズキでケビン・シュワンツのクルーチーフとなる。

それから2ヶ月弱が経過した7月。真夏の日本。鈴鹿8耐は、世界選手権に昇格した。耐久シリーズはTT-F1規定(市販車エンジン使用の4ストローク601〜1000cc、2ストローク351〜500cc)となり、世界選手権シリーズ第5戦として開催されることとなった。鈴鹿8耐としては第3回大会だ。ヨシムラ(ヨシムラR&Dオブ・アメリカ)は、スズキファクトリーマシンGS1000R(XR69。GS1000のφ70× 64.8 mm、997cc)でG・クロスビーとウエス・クーリーを組ませることにした。このペアは、当時のスズキで考えられる最強の2人だ。特にG・クロスビーは現役のGP500ライダーであり、デイトナやマン島で驚異的な速さを見せていて、ライバル達からも一目置かれる存在になっていた。その他セカンドチームとして、リチャード・シュラクター/マイク・コールを参戦させた。

ところでこの鈴鹿8耐には不二雄は来日せず、ヨシムラR&Dで不二雄の右腕である渡部末広メカニックがW・クーリーに帯同することになった。総指揮は、もちろんPOPだ。

#12 W ・クーリーは、1979年AMAスーパーバイクチャンピオン。1980年シーズンはこの鈴鹿8耐まで1勝し、それぞれ2勝のE・ローソン、F・スペンサーと激しいチャンピオン争いを展開していた。そしてその3人が鈴鹿8耐でそれぞれの立場で相見えることになった。負けられないもうひとつの戦いがあった。

予選ではG・クロスビーが、ポールポジションを獲得した。2番手には、0.07秒差で鉄フレームのモリワキモンスター(カワサキZ)を駆るデビッド・アルダナ(デビッド・エムデと組む)。3番手はカワサキKR1000のグレッグ・ハンスフォードだ。G・ハンスフォードは、1978、1979年グランプリ250ccランキング2位、350ccランキング3位になったカワサキを代表するライダーで、デイトナスーパーバイクにも参戦していた。マシンのKR1000もTT-F1専用にカワサキファクトリーで開発したもので、2年目の1980年型は右1本サスの非対称フレームに、TT-F1対応でリリースしたZ1000Jエンジン(φ69.4×66mm、998.6cc)を搭載していた。ペアライダーはエディ・ローソン。1980年からUSカワサキ入りしたダートトラッカーで、AMAスーパーバイクですでに2勝している注目のルーキーだった。

レストアされた1980年型GS1000R(XR69)。本番車とはリアショックのスプリングの色、スイングアームにあった“CYCLE WORLD”誌のステッカーが無いなどが異なるだけ。鈴鹿8耐仕様はハーフカウルで、究極の2本サス・ダブルクレードルフレーム(クロームモリブデン製丸パイプ)だ。1979年の反省からフロントエンジンマウントは、リジッドからラバーマウント(フローティングマウント)になっている。

7月27日、観客数は初めて10万人を超え10万5000人に達した。決勝が始まると、期待のホンダ、フレディ・スペンサーはRS1000のコネクターが抜けるという“電気系トラブル”からたった3ラップでリタイア(よってGP500ライダーのバージニオ・フェラーリは1度も乗らず)。序盤こそトップを狙っていたD・アルダナ(モリワキ)も徐々に遅れ出し、予想通り、#12 W・クーリー/G・クロスビー(ヨシムラ)と#11 G・ハンスフォード/E・ローソン(カワサキ)の一騎打ちとなった。

3時間目には、この2チーム以外はすべてラップダウン。優勝は、ヨシムラか、カワサキか。5時間が経過し、110ラップ目。トップを走るG・クロスビーと2番手E・ローソンの間に、ラップダウンのM・コール(ヨシムラ)が挟まれた。ヘアピンでそのM・コールを抜こうとしたE・ローソンが接触し、両者転倒。M・コールは腕を骨折してリタイアとなってしまったが、E・ローソンはすぐにマシンを起こして再スタート。だが、トップのG・クロスビーに対して約50秒のビハインドを負ってしまった。さらに直後にピットインしたとき、リアタイヤの交換に手間取り、トップの#12 ヨシムラにラップダウンされてしまった。これで#12 ヨシムラのトップは安泰のはずだった。


フロントフォークはφ40mm正立で、油圧式ANDF(アンチ・ノーズ・ダイブ・フォーク)付き(KYB製)。ボトムケースはアルミ削り出し。クイックリリース機構はない。対してリアはブレーキディスク(鋳鉄ベンチレーテッド)もドリブンスプロケットもスイングアーム(アルミ製)に残る立派なクイックリリースシステムを備える。対向2Pのリアキャリパーはマグネシウム製で、ブリーダーニップルやスイングアームの各プレートはチタン製。

ところが……。130ラップを終えてG・クロスビーがピットインしたときのことだった。前後タイヤ交換とガスチャージは、このときの予定に入っていた。が、G・クロスビーは言った「フロントブレーキがスカスカだ。(ブレーキ)パッドを交換してくれ!!」。

パッド交換は予想外で、交換の練習はしていなかった。だが、万が一を想定してパッドは一応用意されていた。フロント担当の浅川邦夫メカニックは、慌てた。キャリパーのピストンをドライバーでこじって押し戻し、新品パッドを入れる。この作業に約1分。トータルでピット作業に約3分かかってしまった。この間、#11 カワサキは、2回ピット前を通過してラップバックして同一ラップになり、逆に#12 ヨシムラに対して約50秒のリードを作っていた。浅川メカは、チームのみんなから責められた。パッド残量は“半分も”残っていたからだ。「お前のせいでトップを奪われた、みたいな……。オヤジさん(POP)も口をきいてくれなかった」と浅川メカは当時を振り返る。

この浅川メカの汚名は、レースが終わって神奈川県厚木のヨシムラ工場で、マシンをバラしたときに晴れた。交換したパッドですらエア噛みする寸前で、もしあの時にパッド交換していなかったら、とても最後までもたず、もっと危険な状態に陥っていただろう……。浅川メカの瞬時の判断と、G・クロスビーの僅かな異変を察知した“センサー”がもたらした“強運”の結果だった。

これでもかとドリル加工で軽量化されたGS1000Rのシリンダーヘッド。ドリル加工はフリーハンドなのでけっして“均一”ではないところに、勝利のために努力を惜しまないヨシムラらしさが窺える。

トップ#11 E・ローソンと、2番手#12 W・クーリーは、両者ほぼ2分22秒台のラップタイムで、差は縮まらない。午後5時48分、#12 ヨシムラはW・クーリーからG・クロスビーに交代する。#12 G・クロスビーは、#11 E・ローソンに対して2秒速い2分20秒台で追い上げる。午後6時24分、#11 カワサキはE・ローソンからG・ハンスフォードに交代。最後のピットインだ。ここでヨシムラの#12 G・クロスビーがトップに立つ。だが、#12 ヨシムラはあと1回ピットインが残っている。POPは、悩んでいた。W・クーリーは糖尿病の持病から疲労が激しく、ラップタイムは期待できない。W・クーリーとG・ハンスフォードでは、勝負にならないのは目に見えている。レギュレーションで1人のライダーが60%以上、または2時間以上の連続走行をしてはならないのだ。G・クロスビーは5時48分から乗っているので、ゴールの7時30分+1ラップしたとしても2時間には満たない……。G・クロスビーに連続でスティントを任せるべきか、体力はもつのか……。

「重い」とPOPには不評だったGS1000Rのフレームだったが、リアサスのアッパーマウンド付近には、せめてもの軽量化で孔開き加工が施される。リアサスは下広がりにハの字にマウントされているが、リアショックの上下取り付け部はピロボールなので作動性に問題はない。また、耐久仕様のGS1000RはACGを後付けでドライブスプロケットにツメで噛ませるタイプを装着するが、そのケーシングは軽いマグネシウム製になっている。

#12 G・クロスビーは、#11 G・ハンスフォードに対して約40秒のリードを持ってピットへ飛び込んできた。POPは叫んだ。

「もう1回行け!!」

ガスチャージだけで猛然とピットアウトして行く#12 G・クロスビー。トップのままだ!! タイヤ交換しないで、最小のピットストップに抑えたのが効いた。ライトオン。暗くなってからもG・クロスビーは日中と変わらない2分22秒台で突っ走る。対して#11 G・ハンスフォードは2分25秒台。

200ラップ、8時間01分03秒54。ヨシムラの#12 G・クロスビーは、トップでチェッカーフラッグを受けた。その40秒26後、2位カワサキの#11 G・ハンスフォードがゴールした。同一ラップは、この2チームだけだった。3位は197ラップでホンダRS1000のマーク・フォンタン/エルブ・モアノー、4位は同一ラップでスズキフランス(後のSERT=Suzuki Endurance Racing Team)のジャン・ベルナール・ペイネ/ピエール・エティエㇴ・サマンだった。これでヨシムラは、1978年の第1回大会と合わせて鈴鹿8耐で3戦2勝だ。

1980年、仮表彰台はグランドスタンド前にあった。左から3位のH・モアノー(ホンダフランス)、優勝のW・クーリー、POP、G・クロスビー(以上ヨシムラR&D)、2位のG・ハンスフォード、E・ローソン(チームカワサキ)。

ストーリーには、まだ続きがあった。ゴール後、浅川メカは、車検場に栄光の#12を押して行こうとした時に気が付いた。

「それにしてもやけに車体が重い……げ、パンクだ!」

リアタイヤに釘か何かが刺さっていた。いったい、いつ? もし、1ラップ早くパンクしていたら……運が良かった。それにしてもメカニックという商売は、歓喜の輪にも入れず、勝っても負けても車検場にマシンを押していき、そこから打ち上げられた花火を見上げるだけ。「やったー、勝ったー!」というより「ああ、今年もやっと終わった」というのが素直な感想だ……という。

そして、鈴鹿から戻り、神奈川県厚木の工場でエンジンをバラしているときだった。ヨシムラ(に限らずトップチーム)は、勝っても負けてもマシンの状態をチェックするために分解する。パワーチェックをするメーカーもある。クラッチハウジングを外そうとしたら、ローラーベアリングがボロボロと出てきたのだ。このローラーベアリングが壊れると、オイルポンプが回らなくなり、オイル切れを起こす。

実はローラーベアリングの外側に被せる大きなカラーがあるのだが、それを逆さに組んでしまった事によって、ローラーベアリングが壊れたのが原因だった。ローラーベアリングには、少し出っ張った所があって、カラーの片側にはその分だけ逃げがある。それを逆さに組んだので、必要以上にローラーベアリングが押されて壊れてしまったのだ。このような状態で、何ラップもったのだろう……。

こうして激走と、決断と、いくつかの運の良さとが重なって、1980年の鈴鹿8耐は終わった。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。