僅か4戦の1979年シーズンだったが、第1戦デイトナ2位、第2戦ラウドン3位、第3戦シアーズポイント3位、第4戦ラグナセカ2位と、優勝こそ無かったが、全戦表彰台に上がり、W・クーリーは見事AMAスーパーバイクチャンピオンに輝いた。自身初、ヨシムラにとっても初めてのタイトルだった。

【ヨシムラヒストリー14】デイトナで1-2-3! ピアース、クーリー、エムデで完勝!!!

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、VEGA、木引 繁雄、Cycle World
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2021年4月30日

1978~1979 Yoshimura GS1000s 1-2-3 sweep at Daytona

1978年、第1回鈴鹿8時間耐久オートバイレースでの優勝は、ヨシムラとスズキに大いなる名声と成功をもたらした。それはデイトナでの優勝によるアメリカでの成功以上に、日本と世界に向かって、スズキGS1000の優秀性と、ヨシムラチューンが世界一であることを証明することとなった。

7月30日の鈴鹿8耐優勝後、ボルドール24時間耐久レースの主催を務めるフランスの雑誌社MOTO REVUEからレースの招待があり、9月16、17日のボルドール24耐(ポールリカール・南フランス)に参戦することになった。ライダーは8耐優勝のウエス・クーリーと、AMAスーパーバイクで活躍していたロン・ピアースだった。

マシンは8耐で使ったものではなく新作した。エンジンは1300ccまでOKなレギュレーションを利用して、997cc(φ70×64.8mm。STDと同じ)からφ73mmピストンを使って1084ccにボアアップした。

ACG(オルタネーター)は24時間持つように、STDに戻した。スーパーバイクはマグネトーCDI点火(インナーローター式)で、クランク左サイドにマグネトーを、クランク右サイドでCDIを備えていた。8耐用はこれにヘッドライトを1灯+テールライトが装備されたが、これは1時間も使用しないので、何とか事足りた。しかし、そこへいくと24時間レースは、夏の終わりの南フランスとはいえ6〜8時間は暗い。鈴鹿8耐ではヘッドライト点灯はせいぜい45分で、本当に暗いのは15~20分で1灯でも充分なのだ。だから24時間レースでは大型2灯式ヘッドライトが必須で、ちゃんと発電・充電するシステムが必要ということなのだ。そこでクランク左サイドに大型オルタネーター(ACG)を装備したというわけだ。

ただ、STDのACGは重く、発生する加減速Gにより左サイドのクランクエンドのテーパーとACG本体が回ってしまい、発電しなくなるというトラブルが発生し、スタート後約2時間でACGが破損。その後はバッテリーを交換しながら走行を続けたが、5時間でリタイアした(スタート直後は3番手だったが)。

POPは、24時間レースでは、スプリント耐久の8耐とはまったく異なる戦い方が要求されることを痛感した。ヨーロッパの耐久チームは、ファクトリーチームはもちろん、有力プライベートチームでも24時間の戦いに備えたマシンの装備はもちろん、スタッフやピットの設備、食事、ライダーの休息するバスなど、ヨシムラとは体制がまるで違ったのだ。優勝は、8耐ではリタイアしてしまったホンダRCB(クリスチャン・レオン/ジャン・クロード・シュマラン)。さすがに耐久の王者、24時間レースは強かった。24時間レースには、24時間レースの戦い方がある。

#97GS1000は1979年デイトナスーパーバイクで優勝したR・ピアースのマシン。排気量は1000ccまでというレギュレーションなのでSTDと同じ997cc(φ70×64.8mm)。2本リングのハイコンプ鋳造ピストンで圧縮比は11.5:1。開幕直前のデータではフルタンク(満タン)で204.3kg、最高出力133.65hp/10,000rpm。新設されたカムチェーンアイドラー、外シム→内シムとしたバケットなどスペシャルチューンが満載。

AMAスーパーバイクでは、第1戦デイトナ(スティーブ・マクラフリン)、第2戦ラウドン(ジョン・ベッテンコート)、第4戦ポコノ(W・クーリー)、第6戦ラグナセカ(W・クーリー)とヨシムラGS1000/750が制したが、チャンピオンはレグ・プリッドモア(レースクラフターズKZ1000)に持っていかれ、W・クーリーはランキング5位に終わった。

ボルドール24時間レースが終わると。POPとヨシムラR&Dオブ・アメリカは、1979年デイトナスーパーバイクの準備を始めた。AMAスーパーバイクは、1978年の集合管が、そしてこの1979年からケーヒンCRなどレーシングキャブレターが解禁になった。もちろんGS1000には4 into1パイプとケーヒンCRφ31mmが装着された。

レース用のKYB製φ35mmフロントフォークはインナーチューブ上部を溶接で35mm延長させている。これは車高を上げてバンク角を増大するのが目的だ。スリックタイヤの採用で深いバンク角が可能になったが、エンジン(特に左サイド)が擦ってしまうからだった。が、重心がその分上がってしまい、ハンドリングに悪影響が出る。フロントホイールはモーリス7本マグホイールで、タイヤはグッドイヤーのスリック19インチ。(3.25-19)。

大きな変革は、まだあった。デイトナで行われるスーパーバイクのレースディスタンスが、従来の50マイルから100マイル(1ラップ3.87マイル×26ラップ)になったのだ。2倍の距離は、途中1回の給油を必要とする。これが主催者の狙いだ。4ストロークの排気音が聞けるスーパーバイクのレースは大人気となった。

今回のデイトナは3台体制で臨んだ。W・クーリー、R・ピアース(1978年ボルドール24時間から)に加えてデビッド・エムデを起用した。D・エムデは、父フロイドが1948年に、兄ドンが1972年にデイトナ200マイルで優勝したレーシングファミリーの一員で、1978年鈴鹿8耐ではTZ750Dで杉本五十洋と組んでヨシムラと優勝争いを演じ、2位に入っていた。

予選の5ラップのヒートレースは、2組に分けて行うのだが、R・ピアースがヒート1で、W・クーリーがヒート2でそれぞれ優勝し、アベレージスピードが高かったW・クーリーがポールポジションとなった(W・クーリー:104.043mph、R・ピアース:101.873mph)。ところがD・エムデは同じくエントリーしていたGP250で転倒し、スーパーバイクのヒートレースではドクターストップがかかってしまった。デイトナは出走数が多いので、ファーストウェイブ、セカンドウェイブと時間差を持たせて2組に分けてスタートさせるのだが、主催者から出走を認められたものの、D・エムデのグリッドはセカンドウェイブの最後尾63番手になってしまった(63台も出走することに驚きだ)。

リアショックはレイダウンマウント(54.5度)され、ピボット部などが補強されている。写真のマシンは補強なしのスイングアームだが、本番車では下側に補強付きのものが使われた。リアホイールはカンパニョーロ5本スポークマグホイールで、タイヤはグッドイヤースリックの18インチ(3.75-18)。

決勝は、W・クーリーとR・ピアースのヨシムラコンビがレースをリードする展開で始まった。続くのはヨシムラが製作販売したコンプリート車であるGS1000を駆るロベルト・ピエトリ(スズキ)、フレディ・スペンサー(ドゥカティ)……。13ラップまでこのオーダーが続き、ここからガスチャージのため各車ピットインしていく(タイヤは無交換)。ヨシムラは確実、かつ素早くこれを済ませてライダーたちをコースへ復帰させた。

しかし、快調にトップをキープしていたW・クーリーに異変が起こった。バックストレートエンドのシケインをオーバーシュートしたのだ。何とかコースに戻ったものの、トップはR・ピアースに譲り、2位で復帰。原因はフロントブレーキのフェード。だましだまし乗るしかない。順位は入れ替わったけれども、ヨシムラ1-2位に変わりはない。

一方、思わぬアタックを見せたのがD・エムデだった。なんと63番手からスタートして、抜きに抜いて19ラップには5番手、20ラップでは3番手まで上がって見せたのだ。そしてチェッカーフラッグ。R・ピアース、W・クーリー、D・エムデ!!の順でヨシムラ1-2-3位。さらに4位に入ったのもヨシムラチューンのGS1000に乗るピエトリ。これ以上にない完勝だった。

カリフォルニア・ロサンジェルス出身のW・クーリー。その豪快なハングオフ、ウイリーに憧れたライダーは多い。ヨシムラ初の契約ライダーで、アライヘルメットでもいち早くレプリカが発売された。1956年6月28日生まれ。父はレーシングライダーで、後にレースを主催するAFM(American Federation of Motorcyclists)を率いた。

この1979年シーズン、AMAスーパーバイクはたった4戦しか行われなかったが、W・クーリーが全戦表彰台に上がり見事、自身初のチャンピオンを獲得したのだ。ランキング2位もR・ピアース。まあ、ある意味敵のいないシーズンだった。ただ、M・ボールドウィンの代役で、ファクトリー参戦してきたカワサキのKZ1000MKⅡ(ただし、このマシンはW・クーリーが1978年に乗っていたヨシムラチューンのZ1がベース)に乗ったF・スペンサーが第3戦、4戦で優勝し、そのF・スペンサーを獲得したホンダが、1980年からファクトリー参戦するという。また、カワサキも規模を拡大し、新人エディ・ローソンを起用。マシンレギュレーションも変わり、最大排気量は1025ccまでのボアアップが可能となる。

1979年シーズン前にヨシムラは仲の良いメディアにGS1000を公開した。そして車両価格抜きでコンプリートのチューニング価格を1万ドルと発表した。

一方、ヨシムラは24時間レースに再び挑み、ルマン24時間にW・クーリー/ R・ピアース、レイモン・ロッシュ/アラン・テラスの2台体制でエントリーしたが、転倒とエンジントラブルで2台ともリタイア。満足いくリザルトを残せなかった。なお、ルマン24時間と同日にアメリカ・オンタリオで開催されたAFM6時間耐久(AFM Six-Hour/On Any Sunday Ⅱ Six-hour endurance race)ではD・アルダナ/D・エムデ組がヨシムラスズキGS1000(1099cc)で圧勝している。

POPと直江夫人は、このルマン後の6月に帰国した。それは加藤昇平・由美子の営む「ヨシムラパーツショップ加藤」を「有限会社ヨシムラパーツオブジャパン」に改組し、日本でのヨシムラの拠点をしっかり構築するためだった。一方モリワキは、製作していたヨシムラ製品の請負製作をすべて終了。晴れてモリワキはヨシムラから完全に独立したと言える。

1979年鈴鹿8耐用マシンはレーシングフレームのハーフカウル、足回りもRG系から転用したKYB製と本格的なものだった。

肝心の1979年第2回鈴鹿8耐は、散々だった。マシンは、初のレーサーフレーム(スズキ本社製)に、POP渾身のGS1000ユニットを搭載。ライダーはW・クーリー/R・ピアースで臨んだが……。まず、フロントブレーキトラブルに見舞われた。ピットインしてエア抜きを繰り返すが、改善しない。最後はクランクシャフトがクランクケースを突き破り、エンジンブロー。フロントブレーキに関しては、2ストRG500用をベースにしたレーサーフレームだったのだが、エンジンマウントがすべてリジッドで、とても4スト1000ccの振動に耐えられず、その振動がモロにフロントブレーキシステムに伝わってしまったことが原因だろうと推測された(1980年型GS1000Rではフロントエンジンマウントはラバーになっている)。

こうして1979年シーズンが終わった。1980年から鈴鹿8耐を含む耐久レースは、TT-F1(市販車1000ccまでのエンジンを使い、フレームは自由)による世界選手権に昇格し、AMAスーパーバイクはホンダ、カワサキのファクトリーチームが参戦してくる。戦いは、一層厳しさを増していく。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。