1978年デイトナのコースインを待つヨシムラ勢。中央の白に日の丸のレーシングスーツが加藤昇平。マシンは#204 GS750/944(前年の仕様を改良)。#83がNEWマシンのGS1000(S・マクラフリン)。左にテールが見える#34は森脇護製作の改良フレームのZ1(W・クーリー)。いずれのマシンもリアショックは大きくレイダウンマウントされている。

【ヨシムラヒストリー12】ファミリー総出で勝ち取ったデイトナスーパーバイク初優勝

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、ロードライダー・アーカイブス、木引 繁雄
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2020年8月28日

1978 World's Fastest Production Bike:GS1000

1977年9月11日のAMA第6戦ラグナセカでデビューウィンを飾ったヨシムラ・スズキGS750/944は、スーパーバイクの新たな時代の幕開けを告げた。並列4気筒は、パワーはあるがハンドリングが悪く、直線では振られる、というそれまでの概念を覆し、ハンドリングでもヨーロピアンツイン(ドゥカティ、BMW、モトグッツィ)と同等以上のパフォーマンスを示したのだった。

2ストロークのスズキが、社運をかけた初ビッグ4ストマルチは、メインマーケットであるアメリカでも高評価を受け、ストリートでもローカルのレーシングトラックでも多くのファンが並列4気筒750ccを楽しんでいた。けれども、ストリートでは市販車最速ではなかった。時代はナナハンではなくリッタークラスへ移っていたのだ。

スズキをはじめ、各社のライバルはカワサキZ1000(北米名KZ1000)。カワサキは1972年に発売を開始したZ1(903cc・φ66×66㎜)をボアアップしたリッターバイクZ1000(1015cc・φ69.4×66㎜)を1976年(1977年型)に発売。GS750がいかに優れていたとしてもナナハン、1000ccにはパワーで劣っていた。これは世界最大のマーケットである北米でもZ1に続く大ヒットで、KZ1000こそ最速の市販モデルだったのだ。

前年のGS750に続きGS1000もデビューウィンを飾った。ライダーは同じS・マクラフリン。解禁になった4-1集合管を装着して本来のヨシムラスタイルになった。GS750/944と同様にフロントフォークもリアショックもKYBのスペシャルパーツ。車重はレース後の車検で、燃料抜きで425ポンド(約192.8㎏)。GS1000の最低重量より18ポンド上回っていただけだった。重量規制(市販車両別)も集合管解禁と共に1978年の新レギュレーションだった。

当初スズキではGSシリーズで2気筒400ccと、4気筒750cc、550ccを企画し、1000cc以上は考えていなかった。ビッグバイクはツーリングモデルで、1200ccくらいまで拡大可能な空冷並列4気筒を搭載、駆動系も当時はまだビッグパワーに対して耐久性で不安があったチェーンではなく、ロングツアラーらしくメンテナンス性を考慮したシャフトドライブを考えていた。

ところが、途中からUSスズキの要請で、カワサキを上回るパフォーマンスバイクを造ることになった。スズキの二輪部門の総責任者であり、ヨシムラと協力関係を結んだ当事者である横内悦夫氏はロングツアラーではなく、1000ccスポーツモデル案を決定した。なぜなら、スポーツモデルでなければプロダクションレース(AMAスーパーバイクや耐久レース)に勝てないからだ。もちろんGS750と基本設計を同じにして1000ccを製作することが可能である、という裏付けがあったからで、製造に関してもGSシリーズと共通の設備でやれるからだった。

肝心のエンジンはGS750の748cc・φ65×56.4㎜に対して、GS1000は987cc・φ70×64.8㎜。エンジンの軽量化が命題で、キックスターターを廃止した。シリンダーヘッドも両カムスプロケット中間にあったアイドラー(上から抑え込むギア)を廃止し、クランクケースも軽量化した。こうした効果で、GS1000はGS750に対して乾燥重量で約10㎏増の232kgで収まった(仕様で若干異なる)。ただ、ヘッドのアイドラー廃止、クラッチ、クランク(組み立て式)などは、後にレース用にハイチューンされた場合に問題になるが……。

W・クーリーのようなハングオフではなく伝統的なリーンウィズでデイトナのインフィールドを攻める#204加藤昇平(GS750/944)。なのでブーツの先端が削れてしまう(血を出すことも珍しくなかった)。胸に日の丸とヨシムラのロゴをあしらったデザインは妻・由美子によるもの。赤にKの文字にヘルメット、メガネは日本でもお馴染みのもの。普段は温厚だが、走りは一転。スムーズだが鬼気迫るものを感じる。後方は3位に入った#36ジョン・ロング。このBMWのチューナーは1980年からライバルとなるアメリカンホンダ(フレディ・スペンサーのCB750F/900F)に加入するウド・ギートルとトッド・シュスター。

GS1000の本格的な開発が始まったのは、GS750発売直後の1977年に入ってからだった。そしてデビューは約1年後。つまり1978年デイトナ・スーパーバイクがデビュー戦となる計画だった。もちろんチューニングやレース参戦はヨシムラR&Dオブ・アメリカ(USヨシムラ)だ。新型のリークを恐れて“GS750改造版”とカモフラージュされた2台のGS1000がスズキ本社からUSヨシムラに届いたのは3月10日(金)。決勝の1978年デイトナ・スーパーバイクまで2ヵ月を切った頃だった。ここから急ピッチでチューニングが始まった。

AMAスーパーバイクはこの年から集合管が解禁となって、いよいよAMAにもあの4-1集合管の咆哮が響き渡る。キャブはまだケーヒンCRなどレーシングキャブが使えず(1979年からOK)、STDミクニをボアアップしたスムーズボアφ29mmだったが、パワーは期待通りに出て130ps以上。ただ、不二雄は耐久性に不安を持っていた。クラッチやカムチェーンなどにトラブルが出ていたからだった。

1978年デイトナにUSヨシムラは3台をエントリーさせることにしていた。GS1000には1977年ラグナセカでGS750/944をデビューウィンさせたスティーブ・マクラフリン。Z1にはW・クーリー。そして3台目のGS750/944にはPOPの次女・由美子の夫・加藤昇平を乗せる。昇平は1974年に神奈川県厚木に由美子と「ヨシムラパーツショップ加藤」を設立し、自チーム「ヨシムラR&D」を結成。お客さんとともに自身もMCFAJを中心にレース参戦を続けていたトップライダーだった。ただ、この頃は日本側のヨシムラとしてパーツ製作・販売に忙しくなり、どちらかといえば開発のためのテストや若手の指導がメインになっていた。とはいってもライダーとして海外レースは夢でもあった。妻・由美子もそれは同じ。夫のためにクシタニで胸に日の丸をデザインしたレーシングスーツを製作。ショップを休むこともできず、息子・陽平がまだ小さかった(1975年11月生まれで2歳)こともあってデイトナには行けず、留守を守ることになったが、その思いを日の丸ツナギに託したのだ。

1978年型ヨシムラZ1は森脇護が改良したフレームを使う。いわば“モリワキフレーム”に“ヨシムラエンジン”を搭載したファミリー結束の作で、この組み合わせは1983年の鈴鹿8耐でも再現された。W・クーリーはこの改良フレームでポールポジション。デイトナの31度バンクでもバックストレッチでもフレが出ず快走。W・クーリーはシーズン途中でGS1000に乗り換え2勝した。

POPのもう1人の息子、森脇護(長女・南海子の夫。)もデイトナに行った。ウォブル(高速で走行中に振動でハンドルが振れる現象)に悩まされていたW・クーリー用Z1のフレームを改良したのだ。森脇はSTDよりもキャスターを寝かせ、トレール量を増やすようにフレームを改良。1960年代後半~1970年代に入る頃までヨシムラのトップライダー/ドライバーだった森脇は、自身でこの新フレームで鈴鹿を走り、フレが解消されたことを確認してUSヨシムラに送ったのだった。

こうして1978年デイトナには長男・不二雄、森脇、昇平の3人の息子たちが揃った。POPと妻・直江は、アメリカ進出時の意見の相違からの森脇と南海子の独立、ヨシムラレーシングの会社乗っ取りから再建、POPの大火傷などそれまでの苦労が一気に報われた思いだった。これから、家族にやっと良いときがやってくる……。

この親子の笑顔は久し振りだったかもしれない。左から不二雄、POP、直江夫人。そして義理の息子2人(森脇護と加藤昇平)もいて、2人とも良い仕事をした。POPのジャケットにはヨシムラとモリワキのワッペンがある。

デイトナは独特で、予選グリッドを短いヒートレースで決める。3月10日(金)の午前中にエントリーを2組に分けて2レースが行われ、W・クーリーと昇平が優勝し、ポールポジションがW・クーリー、2番グリッドが昇平となった。W・クーリーは「フレがウソのように消えた!」とモリワキフレームに大喜び。昇平もGS750/944のハンドリングの良さを生かして速い。さすがだ。

一方肝心のGS1000は大トラブルに見舞われていた。クランクが壊れたのだ。心配は当たってしまった。ヒートレースはリタイアだ。午後の決勝までに直せるのか? POP、不二雄、メカニックは必死にエンジンを組み直し、GS1000が最後列の34番グリッドに就いたのは、スタートの3分前だった。

 

デイトナのスタートは本コースではなく、幅員の広いピットロードからだ。クラッチミート良く飛び出したのは昇平だった。まったくフラットなインフィールド、東西の31度バンクを駆け抜け、18度バンクのグランドスタンド前にトップで戻ってきた! 2番手はW・クーリー。2ラップ目に2人の順位は逆転するが、ヨシムラ1-2位でトップグループを引っ張る。異変は3ラップ目に起きた。

2位を走る昇平のGS750/944はCDIのベースが壊れてストップしてしまった。トップのW・クーリーは快調そうだ。一方、S・マクラフリンは37台出走の34番グリッドからごぼう抜き。パワーとレスポンスにモノを言わせて長いピットが終わった直後の本コースに合流するターン1では20位まで上がる。そして2ラップ目のインフィールドに入る頃には12位へ。2ラップ終了時点ではW・クーリー、昇平たちトップグループに追い付き5位。昇平がリタイアした後にはW・クーリーに続いて2位となり6ラップ終了時点ではなんと、トップを奪取して戻ってきた。

W・クーリーはS・マクラフリンの背後に付け、また抜き返す。こうしたヨシムラ1-2位が続く。この間の2人のラップタイムは2分15秒台と、1977年に優勝したときのクック・ニールソン(ドゥカティ)より約3秒も速い驚異的なものだ。200マイルレースのポールポジションタイムの約10秒落ち(ケニー・ロバーツ・ヤマハ0W31:2スト4気筒750ccファクトリーマシン)で市販車改造マシンが走るのだ。後続は付いていけない。

ここでこのレース2回目の不運がヨシムラを襲った。S・マクラフリンのGS1000が跳ね上げた小石が、W・クーリーのZ1のオイルクーラーを直撃して破損。W・クーリーはデイトナでツイていない。S・マクラフリンは独走で優勝。GS1000でも1977年のGS750/944と同じようにデビューウィンに導いたのだった。でも、ストーリーには続きがあった。ビクトリーラン中にGS1000が止まった。クラッチが壊れたのだった。GS1000はコースから押されてビクトリーレーンにやってきた。あと1ラップあったら……。こうして3.87マイルを13ラップ(約50マイル)する超高速レースは終わった。

「昇平には申し訳なかった。GS1000にかかり切りでオヤジも俺も昇平のマシンを充分にチェックしきれなかったから。優勝できたかもしれなかったのに。GS750/944はパワーと車体のバランスが良くて、まだ仕上がっていないGS1000よりトータル性能は上だったと思うよ、あの時点では」

不二雄は今でも残念そうに語る。こうしてデイトナとAMAスーパーバイクの日本人初優勝とヨシムラ1-2-3位は夢に終わったが、スズキの期待に応え、GS1000で優勝を飾ったのだ。

けれども、そんな余韻に浸る暇はヨシムラにはなかった。この夏、日本で開催されるというビッグレースに臨む準備をしなければならなかったからだ。1976年8月にスズキの横内氏とPOPが交わした男の約束の1つ「1978年に世界選手権クラスのレースに勝つこと」を実現させるためだった。

日本で加藤昇平が乗っていたエグリ・カワサキZ2(1976年頃)。エグリはスイスの有名なフレームビルダーで「ヨシムラエンジン(Z1)と交換しないか」という話から手に入れた車体(エンジンレス)。これに不二雄が日本でチューンしたZ2エンジン(φ69㎜ピストン・867cc)を載せた(不二雄がビザを取得し1976年11月の再渡米する前)。車体にホイールが未装着だったため、スーパーバイクレーサーにも使っているモーリス製マグホイールをアメリカから取り寄せて装着。富士スピードウェイで開催されたMCFAJのレースでは、TZ750/350やRG500などの市販レーサーと同等の速さで、ポールポジションも獲得し、決勝では2位に入るほどだった。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。