全日本最終戦MFJグランプリ(筑波)でTT-F1タイトル決定直後。これでTT-F3と合わせてダブルタイトル獲得だ。TT-F1マシンを前にダイアン(ポーレン夫人)、D・ポーレン、不二雄、由美子、スタッフたち(右端に大島)。
Osamu KIDACHI

【ヨシムラヒストリー29】1989後編「D・ポーレン、全日本TT-F1&TT-F3ダブルタイトル獲得!!」

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、木立治、磯部孝夫
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2024年8月14日

1989 Polen takes historic “Double”.

全日本はサマーブレークに入り、いよいよFIM耐久カップシリーズ第2戦鈴鹿8耐(第12回大会・7月30日決勝)を迎える。1989年耐久シリーズは、世界選手権から外れてFIMカップとなっていた。ヨシムラは#12ケビン・シュワンツ/ダグ・ポーレンと、#45大島行弥/高吉克朗の2台体制で臨む。

ヨシムラの鈴鹿8耐は2台体制。そのマシンのカラーリングは、#45大島/高吉のマシンはいつもの黒/赤だが、#12K・シュワンツ/D・ポーレンのマシンは、左側を黒/赤(ヨシムラカラー)に、右側を青/白(スズキ純正カラー)にと、真っ2つに塗り分けたものだった。ヨシムラとスズキの融合なのか、K・シュワンツがスズキ契約だったからなのか……ともかく異例のカラーリングだった。
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土曜日の予選4回目でD・ポーレンは、K・シュワンツを上回る全体3番手のラップタイムをマーク(3番グリッド確定)。上にはPPの#11マイケル・ドゥーハン(ワイン・ガードナー・ホンダRVF750)、#3ウェイン・レイニー(ケビン・マギー・ヤマハYZF750)が僅差でいるだけだった。

決勝は、2分15秒台という異常なハイペースで展開していった。3時間経過してトップは#11ホンダ、2番手に#3ヤマハ、3番手に#12ヨシムラ。実は、#12ヨシムラは第1スティントでD・ポーレンがライディングしていたとき、タイヤに異変があり15ラップで予定外のピットインをしていた(タイヤの選択ミス。前後タイヤ交換)。

K・シュワンツの鈴鹿8耐は不運の連続で、フラストレーションの溜まるウィークエンドになってしまった。予選では路面コンディション(大雨もあった)に翻弄され、決勝では度々のガス欠、オイル漏れ……。本来の速さを見せることなく1989年大会を終えた。
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#3ヤマハはK・マギーが乗っている94ラップ目の130Rでオイルを吹いた。これで#12ヨシムラが2番手に上がる……が、110ラップ目のバックストレートでK・シュワンツが#12GS-R750を押している! ガス欠!? ピットまで戻るのに約3ラップ分かかってしまった。ガスチャージしたらエンジンは、何事もなかったように始動してピットアウトした。一方、D・ポーレンも、K・シュワンツと同じくガス欠になり、ピットまで惰性で戻ってきた。原因は、キャブのスターターが引かれていたことだった(ピット作業の際に触ってしまってのかもしれない)。これで混合気が濃くなって、想定ラップをこなせなくなってガス欠を起こしたのだ。

残り約1時間、#12ヨシムラに、またトラブル発生(タワーは残り1時間6分を示している)。不二雄を中心に対策を考え、6時28分にピットイン。オイル漏れだった。応急処置して一旦は出ようとするが、オイル漏れは止まらず。シリンダーヘッド冷却用のサブオイルクーラー(アッパーカウル部)のフィッティングから漏れていると判明。約9分間の作業で復帰したが……。
Osamu KIDACHI

さらに#12ヨシムラを不運が襲う。残り約1時間、オイルクーラーのフィッティングが壊れたのだ(オイル漏れだ)。これで表彰台の望みも消えた。

この間、トップだった#11M・ドゥーハンはラップダウン(周回遅れ)をかわし損ねて転倒(リタイア)。そしてヤマハファクトリー勢もマシントラブルでリタイア。その間隙をついて#2ホンダエンデュランスチームがトップに立ち、そのまま優勝。#45大島/高吉はコースアウトを喫したが5位。#12K・シュワンツ/D・ポーレンは、何とか完走8位。ともにトップから5ラップ遅れの197ラップだった。

日本人ペアの#45は、大島から高吉に交代して2ラップ目の134ラップ目に、1コーナーでコースアウト。マシンはグラベルで前転し、クラッシュパッドにぶつかった。幸いピットで修復でき完走、5位。転倒の原因は、ギア抜けだった。
Takao ISOBE

アンラッキーだった7月30日の鈴鹿8耐後、全日本再開前の8月27日にスーパーバイク世界選手権第7戦が菅生であった。予選で#48D・ポーレンはPPを獲得。#47大島で転倒し、決勝への出走を取りやめた。決勝は雨。#48D・ポーレンはヒート1で優勝、ヒート2で4位と実力を見せた。

そして全日本が再開。9月10日の鈴鹿(TT-F1の6戦目)で、#32D・ポーレンは予選4番手から決勝で2位に。チャンピオンシップでは、トップまで5ポイント差のランキング2位につけた。

西仙台ハイランド(9月24日)は、TT-F3の6戦目。ここで#32D・ポーレンはポールtoウィンを飾り、チャンピオンシップでは2番手の#28青木宣篤に24ポイントの差をつけてトップをキープ。

続くTBCビッグロード(10月15日)は、TT-F1&TT-F3の7戦目。まず、#32D・ポーレンはタイトル決定がかかるTT-F3で、予選の1回目で6ラップ、2回目では僅か5ラップで切り上げたものの、オールタイムラップレコードでPPを獲得(ダブルエントリーならではの省エネだ)。決勝ではスタート直後の混乱で5番手辺りだったが、4ラップ目にトップに立つと、そのまま独走。最終戦を待たず、1つ目のタイトルを獲得した。

TT-F1でも#32D・ポーレンは、予選でオールタイムラップレコードを出しPPを獲得。決勝では中盤にトップに立つとそのまま優勝。今季3勝してランキングトップだった#1宮崎祥司(ホンダRVF750)を逆転し、6ポイントリードした。

最終戦はMFJグランプリ(10月29日)。タイトルを決めているTT-F3では、予選3番手から決勝は3位。

そして最重要となるTT-F1では、#32D・ポーレンは、予選1回目で早くもオールタイムラップレコードを更新し、そのままPPを獲得。しかしその肝心な決勝で、#32D・ポーレンはスタートで完全なミスを犯してしまう。混乱の中ライバルのホンダRVF750勢に接触。15番手辺りに埋もれてしまった。トップは#1宮崎で、このまま#32D・ポーレンが4番手以下なら、#1宮崎が逆転でタイトルを連覇する。けれども#1宮崎はタイヤがタレてきたことにより13ラップ目に一気に3位まで転落。一方#32D・ポーレンは徐々に順位を挽回していき、21ラップ目には5位に浮上。レースはこのまま#1宮崎3番手、#32D・ポーレン5番手でチェッカードフラッグとなり、#32D・ポーレンが#1宮崎に僅か2ポイント差を付けてチャンピオンに輝いた。これで史上初のTT-F1&TT-F3のダブルタイトル獲得が決定した。#4大島はランキング6位だった。

D・ポーレンの全日本TT-F1&TT-F3ダブルタイトル獲得を記念して1989年シーズン終了後、アメリカでAMAスーパーバイクに#1を付けて記念写真が撮影された。タイヤは、全日本ではミシュランだったが、AMAではダンロップだ。シリンダーヘッド冷却用サブオイルクーラーを、フレーム横にマウントした1990年AMA仕様だ。
Yoshimura Archives

一方AMAでも、#48ジェイミー・ジェイムズがスーパーバイクと750スーパースポーツ(ほぼSTDのプロダクションレース)のダブルタイトルを獲得した。#22スコット・ラッセルは、スーパーバイクでランキング2位(ヨシムラ1-2位)、750スーパースポーツでランキング3位になった。シーズン開始当初はアンラッキーだったが、終わってみれば日米で最高過ぎる結果を残したのだった。

ヨシムラジャパン

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住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。