鈴鹿200kmでトップを行く#32ダグ・ポーレン。続いて#4大島行弥、#40永井康友(ヤマハファクトリー)。D・ポーレンは、マシンやタイヤの負担をかけない走りができる。ほぼSTDマシンで、溝付きタイヤで戦うボックスストックレースでの経験が生きている。
Osamu KIDACHI

【ヨシムラヒストリー28】1989前編「不運が重なるデイトナ、しかし全日本では徐々にチームの調子が上がっていく」

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、木立治、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
  • English Page >>
  • 掲載日/2024年8月14日

1989 Harder than his speed

ダグ・ポーレンは、不二雄が今まで出会ったことのないタイプのライダーだった。走りは、常に限界を超えることはなく、ブッチ切りの独走はしないで、終盤に抜いて僅差で勝つ(100%で走ることもあるが、それもほんの1、2ラップだ)。何秒差を付けるのかは、ポイントや賞金に関係なく、勝つことだけが重要なのだ、と言わんばかりのレースをする。贅沢はしない。趣味はコンピューター、ゲーム、そして日本に来てからパチンコ。インドア派で、はっきり言ってオタクだ。

1989年、ヨシムラはD・ポーレンを全日本にフルエントリーさせることにした。TT-F1(GSX-R750)とTT-F3(GSX-R400R)のダブルエントリーだ。ライセンスもAMAではなくMFJを取得。住まいは、神奈川県厚木市にヨシムラが用意した。チーム体制は、両クラスともD・ポーレン(前年全日本TT-F1で2勝。AMAスーパーバイクランキング2位)と、大島行弥(1987年全日本TT-F1チャンピオン。前年ランキングはTT-F1が4位、TT-F3が9位)だ。

まず、シーズンは全日本開幕戦鈴鹿2&4(3月5日)から始まった(TT-F1のみ開催)。

その予選(土曜日)は、雨が降ったり止んだりで、2組ある予選の組分けで、D・ポーレンが運悪く本降りになった組で走り、16番グリッド(4列目)となってしまった。一方大島は2番グリッドを獲得した。

決勝はドライになったが、2&4レースらしく4輪のタイヤのマーブルとオイルが残り、路面は決して良い状態ではなかった。オープニングラップで3番手に付けていた#4大島が電気系トラブルによりデグナーカーブでストップ(リタイア)。D・ポーレンは遅いパックに阻まれて思うように順位を上げられず、追い上げたが、結局、4位でゴールした。

#48ジェイミー・ジェイムズは、D・ポーレンと同じくGSX-Rカップレース(スズキが指定したレースに賞金を出す)出身。1987、1988年はスズキエンデュランスチームに所属し、WERA耐久シリーズとAMAスーパースポーツに参戦。1989年にヨシムラ入りした。そして1989年AMAスーパーバイク&750スーパースポーツでチャンピオンを獲得。1961年3月9日、ルイジアナ州生まれだ。
Yoshimura Archives

D・ポーレンは飛行機に飛び乗り、足かけ20時間以上かけてアメリカ東海岸フロリダへ。第48回デイトナ200マイルに出場するためだ。3月12日(日)が決勝だが、3月7日(火)からプラクティス(フリー走行)が始まるから、スケジュールは超タイトだ。

そして3月8日(水)のタイムドプラクティス(予選。2列目までのトップ10グリッド決定)で、トップタイムをマークし、ポールポジション(PP)を獲得。スズキGSX-R750が1~6番グリッドを占めた。

3列目以降のグリッドを決める50マイルヒートレース(エントリーを2組に分ける)のヒート1で、#23D・ポーレンは、トップを走りながら3ラップ目にフューエルラインのトラブルでリタイア(スターティンググリッドはPPで決定済み)。ヒート2では、ヨシムラスズキ期待の若手#22スコット・ラッセルと、#48J・ジェイムズが1-2位となった。

デイトナ200決勝(57ラップ)。S・ラッセルがスタートでグリッドに取り残され、後続のライダーが避け切れず、2台はクラッシュし、レッドフラッグとなった。S・ラッセルのマシンは、ヨシムラR&Dのスタッフの手によって何とか修復され、リスタートに間に合った(だが、チェーンアジャスターが壊れていたことには気付かず、リスタート後、修理のためにピットイン。結局53ラップでレースを終えた)。

200マイル57ラップは変わらずで、リスタート。そして、またしてもD・ポーレンが好スタートをきってトップに立った。ところが6ラップ目に、D・ポーレンを追っていた#11ギャリー・グッドフェローがオイルに乗ってシケインで転倒。これで、デイトナ200初となるNASCAR(4輪ストックカーレース)スタイルのペースカーが入った。

ペースカーラップは遅い。タイヤは冷え、内圧は低下するし、ラインを外せばマーブルを拾う。エンジンにも影響が出ないとも限らない。レーシングスピードで走ってこそ、ラジエーターやオイルクーラーが適温に冷却する。

S・ラッセルのマシンは、デイトナ200のリスタート後にチェーンアジャスターのトラブルで予定外のピットイン。そしてピットアウトしようとしたが、ペースカーラップの途中だったのでオフィシャルがストップし、隊列の最後尾にさせられた(この写真。アンラッキーだ)。J・ジェイムズとは同期で、GSX-Rカップレース出身も同じで、同時に1989年ヨシムラ入り。同年AMAスーパーバイクランキング2位。1964年10月28日、ジョージア州生まれだ。
Tomoya ISHIBASHI

11ラップ目にペースカーはアウトし、レース再開。そして、D・ポーレンがトップを快走する。だが、24ラップを終了した時点でスローダウン。オイルクーラー破損だった。

これでチームメイトのJ・ジェイムズがトップだ。けれどもヨシムラの悲劇は、これで終わらなかった。55ラップまでトップだったJ・ジェイムズの2気筒が死んでピットイン。ピットはガス欠の疑いで、ごく少量スプラッシュしておくり出すが、原因はバッテリー電圧の低下だった。J・ジェイムズは何とか走り切り2位でゴール。優勝はプライベーターの#37ジョン・アッシュミィード(ホンダVFR750F)で、3位はGSX-R750に乗る#43ケビン・レンツェルだった。

「アンラッキーウィーク!こんなにツイてない1週間は、生まれて初めてだ。この借りは日本GPで返す!」

と言って、珍しく激しく感情を露わにしたD・ポーレン。だだ、その世界選手権第1戦日本GP(鈴鹿・3月26日)でも、不運は続いた。

#35D・ポーレンはスズキ本社からのエントリー(RGV-Γ)で、これがGP500デビュー 。ただ、マシンに慣れる時間があまりに少なく、金曜日の予選で“珍しく”転倒。予選20番グリッドに甘んじた。そして決勝は、ブレーキトラブルで、5ラップでリタイア。レースは#17ウェイン・レイニー(ヤマハ)とのマッチレースを制した#34ケビン・シュワンツが、日本GP連覇を果たした。それにしてもデイトナ200といい、日本GPといい、D・ポーレンは、本当に“アンラッキー”だった。

でも、日本GPに併催された全日本TT-F3にエントリーした際にはPPから初優勝してみせた。それにしても、世界選手権GP500と全日本TT-F3のダブルエントリーなんて前代未聞だ。

D・ポーレンは愛妻ダイアンを伴って来日した。2人はいつも一緒で、とても仲が良い。ダイアンはヨシムラのスタッフや全日本の仲間たちとも非常に仲が良く、何かと面倒見が良くて、すぐに“パドックの主役”になっていった。
Osamu KIDACHI

全日本TT-F1の2戦目は鈴鹿(4月23日)。スターティンググリッドは#32D・ポーレンが5番手、#4大島が6番手。決勝は雨。大島は3位で表彰台に上がった。一方、D・ポーレンは、ヘルメットのシールドの曇りに悩まされ11位に終わった(アンラッキーは続いている)。

続く全日本TT-F3の2戦目(4月30日)は、西日本サーキット(後のMINEサーキット。2006年に閉鎖)で開催された。そこで#9大島はPPから優勝。大島は西日本育ちで、大島は森脇護(モリワキエンジアリング)に1通の手紙を書き、ここからヨシムラ入りするサクセスストーリーが始まったのだった。

全日本TT-F3の3戦目は菅生(5月14日)で、世界選手権TT-F1開幕戦の併催レースだった。その全日本TT-F3で予選2番手の#32D・ポーレン。決勝の路面はハーフウェットだったが、急速に乾きつつあった。タイヤ選択は、フロントのカットスリック、リアにスリック。最終盤に#28青木宣篤(ホンダNSR250R)と接戦を制した#32D・ポーレンが、2勝目をあげた。

世界選手権TT-F1の予選は、#2D・ポーレンがPPで、2番手が#23大島とヨシムラ1-2位。決勝はドライで、D・ポーレンは、セッティングを合わせ切れず6位。#23大島でトップの#7マイケル・ドーソン(ヤマハ)を逃すも、接戦から3位に入った。

続く全日本TT-F1の3戦目の筑波(5月28日)で、#32D・ポーレンはPPからスタートし中盤まで2番手をキープし、レースを見透かすかのように、決勝25ラップ中の11ラップ目にトップに出ると、そのままゴールし、1989年全日本TT-F1初優勝を飾った。2位争いを展開していた#4大島は、ラスト5ラップで転倒リタイアした。

鈴鹿200kmで優勝#32D・ポーレン(中)、2位#4大島でヨシムラ勢1-2フィニッシュ。3位はヤマハファクトリーの#40永井。#32D・ポーレンは、レース展開を予測し用意してある作戦通りに走る。また、その展開が予想外だったとしても、用意してある対策はいくつもある。だから決して慌てない。
Osamu KIDACHI

6月11日の鈴鹿8耐前哨戦の鈴鹿200kmは、全日本のTT-F1でもTT-F3でも4戦目。まず、TT-F3で、PPの#32D・ポーレンは、まだハーフウェットの路面と相談しながら前後スリックタイヤで、慎重にスタート。4ラップでトップに立ち、以後2番手以下を徐々に引き離し優勝。

TT-F1の200kmは、スタート時に完全なドライ・晴れ。PPの#32D・ポーレンは慎重な出だしでオープニングラップを4番手で通過。その後、ライバルたちのマシントラブルや転倒もあり、14ラップでトップに立ち、一旦ピットストップで順位を落とすも、25ラップにトップへ回復。後はそのままチェッカードフラッグを受けるだけだった、2位にはヤマハの#40永井康友との接戦を制した#4大島が入り、ヨシムラが1-2フニッシュ。

6月25日の筑波はTT-F3の5戦目で、#32D・ポーレンは5位。そして7月9日の菅生は、TT-F1の5戦目で、#32D・ポーレン2位、#4大島は6位だった。

第29話 後編に続く

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。