ゼロ番台の#02がスポット参戦を示す。ダグ・ポーレンは、TBCビッグロードやMFJグランプリでTT-F1とTT-F3のダブルエントリーだったが、彼にしてみれば1日2レースは軽いもの。1987年はAMAでスーパーバイク、750スーパースポーツ、600スーパースポーツのトリプルエントリーだったし、ローカルレースでは1日6、7レースは当たり前。
Takao ISOBE

【ヨシムラヒストリー27】D・ポーレン、全日本デビュー。鈴鹿8耐は2位。

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、磯部孝夫、木立治
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2024年6月9日

1988 Part2 Another Texan Makes His Debut In All Japan Championship.

1988年の全日本ロードレースは全15戦で、その中から開催クラスがセレクトされた。国際A級TT-F1は、ちょっと少なくて6戦が、国際A級TT-F3は8戦が組まれていた。TT-F1クラスは、3年連続チャンピオンを獲っているヨシムラ(スズキ)を筆頭に、ホンダ(HRC)、ヤマハ、カワサキの4大メーカーがファクトリーマシンを送り込み、全日本と鈴鹿8耐は、それこそ4ストロークレーシングマシン世界一を争う舞台となっていた。ヨシムラは、もちろん油冷GSX-R750のTT-F1仕様(フレーム・スイングアームなどはスズキ本社製)だ。ただし、φ73mmショートストロークの1988年型ベースではなく、従来型のφ70mm型ベースだ(TT-F1はボアアップによる排気量1%オーバーが許可されているから、実際にはφ70.3mmピストンを使う)。

ヨシムラとしては、1987年全日本TT-F1チャンピオン&TT-F3ランキング3位の大島行弥が両クラスのエースだ。さらにTT-F1には全日本TT-F1ランキング8位&TT-F3ランキング3位で鈴鹿8耐2位の高吉克朗と中村久智を、TT-F3には安藤武を参戦させた。中村と安藤は1987年鈴鹿4耐優勝ペアだった(マシンはヨシムラスズキGSX-R400)。

TT-F1開幕戦は全日本第4戦鈴鹿(4月24日)と遅く始まった。大島は、3月にデイトナのターン1での転倒の影響もあり(精神的にもだ)、車体のセッティングが決まらないままでいた(デイトナでもフロントが決まらなくて苦労していた)。それは、そうだ。ヨシムラの鈴鹿でのテスト走行は、東コースを1時間だけと圧倒的に不足していたからだ。予選中もサスメーカーの担当者が、つきっきりでセッティングを繰り返した。それでも予選6番手、決勝4位と健闘した。高吉も苦戦していた。予選では転倒し15番手。決勝も14位に沈んだ。

理論派チューナーの不二雄(左)は、計算づくでレースを組み立て走るD・ポーレン(右)が気に入っていた。自分とマシンとレース展開を分析し、けっして無理をしない。それでいて最良のリザルトを残す。今までヨシムラにいなかったタイプのライダーだった。
Osamu KIDACHI

TT-F1第2戦(全日本第8戦)は、鈴鹿8耐前哨戦に位置づけられる鈴鹿200km(6月12日)だった。ヨシムラは、怪我が癒えない高吉に代わってD・ポーレンを出走させ鈴鹿8耐に備える。そして大島、中村を参戦させた。予選は、D・ポーレンの11番手が最上位とヨシムラ勢は振るわない。

鈴鹿200kmは全35ラップで、途中1回ピットストップがある。ガス補給はもちろん、タイヤ交換もするが……。決勝は雨だった。全車レインタイヤでスタート。18ラップすぎ、トップグループのピットストップが始まる。それから間もなくして、路面が急速に乾き始める。宮崎祥司(チームブルーフォックス・ホンダRVF750)は、リアタイヤを1度交換(レイン→レイン)して、再度交換(レイン→カットスリック)するなど各チーム混乱する。そんな中、スタート時のレインタイヤをボロボロになるまで使い切ったプライベーターの大島正(チームブルーフックス・ホンダCBR750)が優勝。ヨシムラは中村が転倒リタイア、大島が8位、D・ポーレンが11位に終わった。

続く3戦目となる菅生(全日本第7戦・7月12日)も梅雨明けが遅れた影響で、鈴鹿200kmに続き雨だった。ヨシムラは大島、中村、そして怪我から復帰した高吉の3台体制で臨んだが、大島7位、高吉13位、中村14位に終わった。決勝は雨が止み、路面が徐々に乾くという難しいコンディションとなり、グリッド上でリアタイヤをレイン→カットスリックに交換した宮崎が、中盤から追い上げ国際A級初優勝(宮崎は1986年のヨシムラライダーだ)。2位は雨に強い大島正だった。

K・シュワンツはGP500に行ってからも、鈴鹿8耐にヨシムラから出場を続けた。1985~1989年はヨシムラから、1992年はスズキファクトリー(ラッキーストライクスズキ)から参戦した。
Osamu KIDACHI

そして鈴鹿8耐(7月31日)がやって来た。#12がGPライダーのケビン・シュワンツとD・ポーレン、#45が大島と高吉の2台体制だ。必勝体制と言いたいところだが、エースK・シュワンツは、ベルギーGP(7月3日)で転倒し右膝を骨折。その回復具合が心配だった。それでもK・シュワンツは予選2日目(土曜日)に3番手タイムをマーク(本来の体調ならトップタイムというところだが)。トップタイムを出したのは、宿命のライバル、ウエイン・レイニー(ヤマハYZF750/ケビン・マギー)で、2番手はワイン・ガードナー(ホンダRVF750/ニール・マッケンジー)。

POPは、1985年の肺の病を患って以来、夫妻そろってこんなにうれしそう笑顔を見せたのは久し振りかもしれない(鈴鹿8耐で直江夫人と)。
Osamu KIDACHI

決勝は、1スティント目から意外な展開で始まった。スタートライダーを務めたK・シュワンツが約32分(15ラップ)でピットインしてきたのだ。ガス補給+前後タイヤ交換を行ってD・ポーレンに交代した。鈴鹿8耐は、現在では1時間毎に計7回ピットインだが、この当時は8回と7回に作戦が分かれていた。右膝骨折からの回復途中にあるK・シュワンツの負担を小さくする配慮からか、彼は8回ピットストップ作戦で、それも1スティント目をショートにしたというわけだ。

レースはW・ガードナー、W・レイニー、マイケル・ドーソン(YZF750)がトップ3で、やや離されてミック・ドゥーハン(YZF750)、ピットインのタイミングでズレるが、ヨシムラ#12は実質5番手争いという展開で進む。K・シュワンツもD・ポーレンもトップ争いをするほどのラップタイムは出せないでいた。トップ争いは、負けるハズのないGP500世界チャンピオンのW・ガードナーを、W・レイニーが抜いて徐々に2位以下を引き離していった。

高吉は、怪我の影響もあり、全日本でも鈴鹿8耐でも本来の姿ではなかった。大島と組んだ鈴鹿8耐では22位で終わった。
Takao ISOBE

W・レイニー/ケビン・マギーは独走。105ラップ目、2位につけていたW・ガードナー(ニール・マッケンジー)がダンロップコーナーの上りでストップ。7.8%上り勾配を何とか押してショートカットしピットへ、そのままリタイアとなった。エンジントラブルだった。2位争いは、ヨシムラ#12をヤマハ#21(平忠彦/M・ドゥーハン)が追う展開となったが、両チーム最終スティント(ヨシムラ:K・シュワンツ vs. ヤマハ:平)の残り11分、平の淡い紫色のマシンがS字手前でストップ。万事休す。平、3度目の悲劇だった。優勝はヤマハ#3(W・レイニー/K・マギー)で、2位にトップから1ラップ遅れでヨシムラ#12(K・シュワンツ/D・ポーレン)、3位にカワサキZXR-7#9(ピエール・サミン/アドリアン・モリラス)。1~3位は8回ピットストップで、4位のH・モアノー/T・クライン(SERT・GSX-R750)は7回ピットストップだった。ヨシムラ#12は表彰台だが、K・シュワンツの怪我もあり、トップを獲るのはスピードが足りなかった。なお、大島/高吉は22位でレースを終えた。

夕陽のバックストレートから130RにアプローチするD・ポーレン(鈴鹿8耐)。鈴鹿で最も美しい場所と時間だ。
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鈴鹿8耐ウィークが明ける後半戦だ。全日本TT-F1が再開する前にTT-F3が2戦あり、その内1戦はスーパーバイク世界選手権(SBK)菅生ラウンドと併催だった。そのSBKには大島と、ヨシムラがサポートするギャリー・グッドフェロー(ドンニットスガノGSX-R750)が参戦。ヒート1ではG・グッドフェローが優勝し大島が3位。ヒート2でもG・グッドフェローは3位(大島13位)と、ヨシムラ勢が大活躍した。ヒート2優勝はM・ドゥーハン(ヤマハ)だった。

全日本TT-F1の4戦目となる9月の鈴鹿(9月11日)には、D・ポーレンが参戦(D・ポーレンは、鈴鹿を含むTT-F1残り3戦にすべて出場することになる)。彼は、前回参戦した鈴鹿200kmではタイヤがミシュランだったが、今回はAMAで慣れ親しんだダンロップを履き、ただ1人2分17秒台を記録して、ポールポジション(PP)を獲得(2分17秒921)。そして決勝でも2番手との差をコントロールしながら、最終的に必要にして十分な差(3.812秒差)で優勝した。大島は7位だった。

TBCビッグロードのスターティンググリッド。右から2列目5番手#21宗和(カワサキ)、1列目2番手#3町井(ヤマハ)、2列目6番手#2宮崎、1列目3番手#05D・ポーレン(立って振り向いている。隣にダイアン夫人、高木メカ、2列目7番手#6斎藤(ヤマハ)。
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続くTT-F1の5戦目(全日本第14戦)は、菅生でのTBCビッグロードレース(10月9日)だった。このレースにはヨシムラのD・ポーレンに加え、ヤマハからM・ドゥーハン、プライベートチーム(YSP目白)からビモータYB4でアーロン・スライト と、未来の世界のトップライダーたちが顔を揃えていた。予選はPPがM・ドゥーハン、2番手に町井邦生とヤマハファクトリーが好調。D・ポーレンは3番手、大島は8番手だった。決勝は、飛び出したオープニングラップの3コーナーで転倒。上手くかわしてトップに立ったD・ポーレンだったが、2ラップ目にM・ドゥーハンに抜かれてしまった。M・ドゥーハンはそのまま独走優勝。D・ポーレンは冷静に2位キープを選択。大島は粘り強く走って5位に入った。また、TT-F3にもエントリーしたD・ポーレンが6位となった。

全日本最終戦の前にイベントレースの富士スーパースプリント(10月23日)があり、TT-F1クラスではヤマハファクトリーのM・ドゥーハン、M・ドーソンが1-2位。3位表彰台にはD・ポーレンが上がった。G・グッドフェローは7位で大島は9位。GP500クラス優勝はK・シュワンツだった。

富士スーパースプリントのパレードラン。左から2位M・ドーソン(ヤマハ)、優勝M・ドゥーハン(ヤマハ)、3位D・ポーレン(ヨシムラ)。

全日本最終戦(10月30日)MFJグランプリは筑波での開催だった。4kmコース(鈴鹿は6kmコース)が多い中、筑波は2kmコースで、TT-F1だと1ラップ57~58秒を記録する超ショートコースだ。予選でPPは好調の町井で、D・ポーレンも57秒台に入って2番グリッドを獲得(57秒台はこの2人だけ)。大島は5番手、G・グッドフェローは7番手だった。

決勝は、予想通りD・ポーレンと町井のマッチレースとなった。9ラップ目からトップを守ってきた町井だったが、ラストラップ(25ラップ目)の第1ヘアピンでD・ポーレンが見事にインを差し逆転。D・ポーレンが町井に0.11秒差で優勝(全日本2勝目)。3位には接戦を制した大島が入り、ヨシムラ勢が表彰台の2つを占めた。D・ポーレンはTT-F3にもダブルエントリーし、見事3位。両クラスで表彰台に乗った。

全日本ランキングではTT-F1クラスで大島が4位、高吉が24位、中村が26位。TT-F3では安藤が4位、大島が9位、高吉が14位。狙っていたものとはほど遠い結果だった。一方D・ポーレンは、スポット参戦のためポイントは与えられなかったが、その活躍は充分過ぎるものがあった。

そして1989年シーズンを迎えるにあって、ヨシムラは決断をする。D・ポーレンがMJFライセンスを取得し、全日本にフル参戦……。それは異例ではあったが、勝算のある計画だった。

ヨシムラジャパン

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住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。