1977年AMAスーパーバイク第6戦ラグナセカでヨシムラ・スズキGS750/944はデビューウィン。ヨシムラは、その勝利報告の広告をCycle News紙(アメリカの週刊バイク新聞)に掲載した。この中には各スポンサーへのお礼やライダーへの賛辞も含まれている。スズキへのそれは“ナイスハンドリングGS750”と表現し、4気筒がパワーだけのものから、トータルバランスの時代へ切り替わったことを強調している。また、全米のヨシムラ正規取り扱い会社の中にAMAでライバルでもあるレースクラフターズ社が入っていて、“仲間で作り、走る”という当時のスーパーバイクレースの良い雰囲気が伝わってくる。

【ヨシムラヒストリー11】スズキとの出会いと時代を変えたGS750/944

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、ロードライダー・アーカイブス、木引 繁雄
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2020年7月1日

1976~1977 Daybreak of GS’s era

1976年8月の、POPとスズキ・横内悦夫氏の運命的な出会いと、たった30分足らずの会話が、その後今日まで続くヨシムラとスズキの協力関係の原点だった。だが、ストーリーは、実はその少し前に始まっていた。

この年の夏前にサイクル誌(アメリカのバイク月刊雑誌)にスズキの新型4ストローク並列4気筒GS750のエンジン透視図が掲載されていた。ノースハリウッドのヨシムラR&Dオブ・アメリカでレース用Z1のチューニングや、4-1集合管の製作に朝から深夜まで追われていたPOPは、このエンジン透視図に吸い寄せられた。

このエンジン透視図は、実はスズキが仕組んでサイクル誌に独占掲載させたものだった。スズキは初の4ストロークマルチエンジンモデルの発売にとても慎重だった。何しろ2ストロークのスズキが初めてリリースする4スト。それもミドルクラスからビッグバイクまでのシリーズ数機種(2気筒GS400や4気筒GS550)があり、そのフラッグシップとなるのがGS750だったのだ 。実走テストでの問題洗い出しや耐久性確認はもちろん重要だが、その運命(売れるのか)は世界最大のマーケットであるアメリカの雑誌の評価にかかっていると言えるからだった。

そこでスズキは、アメリカでもフェアだが手厳しいサイクル誌を選んだ。何しろ編集長は全米選手権であるAMA(American Motorcyclist Association)スーパーバイクでドゥカティ750SSに乗る現役トップライダーで、ヨシムラの宿敵でもあるクック・ニールソンだ(1976年ランキング4位。1977年デイトナで初優勝。1977年ランキング2位)。スズキはサイクル誌のライターを極秘に日本に呼んでプロトタイプを試乗させた。このときの評価は素晴らしいもので、スズキのGS750への自信は確信へと変わった。

そしてスズキはエンジン透視図をサイクル誌に提供し独占掲載させ、POPはこれを見たのだ。日本製大型4気筒としては1969年のホンダCB750FOUR(SOHC2バルブ)、1972年のカワサキZ1(DOHC2バルブ)に続く3作目で、さすがに従来の4スト4気筒を研究したスズキ渾身の新作。ヨシムラは前2作を徹底してチューニングしていたから、長所も短所も知り尽くしていた。POPはこの新型4気筒に魅かれた。

「これはZ1より良いぞ、丈夫そうでチューニングに耐えられそうだ」

車両メーカーはバイクを製品として完成させれば、その時点(STD)が最高の出来とするのだが、チューニング屋は違う。そこからヨシムラはパワーだと1.5倍くらい高めてしまうのだ。その余裕が構造にも材質にもあるのか、がヨシムラには重要だ。POPの目にGS750は高いチューニングの可能性を秘めた最良の素材に見えた。

目新しいことはしないで、真面目に質実剛健な構造。その姿勢に好感を覚えた。POPは早速USスズキ(現スズキ・モーター・オブ・アメリカ)に連絡したが、試作段階だということで詳細は教えてくれなかった。7月にスズキはメディア(雑誌・新聞)から6人のテスターを招き、ワシントン州、アイダホ州、モンタナ州を700マイルに渡ってGS750を試乗させた。これがGS750の初公式プレス発表だった。どのテスターの評価も最高のもので、間違いなくユーザーに受け入れられるだろうというものだった。

これはGS750の日本向けカタログにあるエンジン透視図。GS750正式発表前にPOPが目にしたCycle誌に掲載されたエンジン透視図が、ヨシムラの未来を決めることになった。GS750の構造は、従来ある4スト4気筒の技術を丹念に精査し良質に仕上げたものだ。奇をてらうようことは一切なく、パワーを出すことと同時に、徹底して信頼性を高めた。エンジンの全開耐久テストは2万㎞(100時間)行われたという。

8月、ヨシムラR&DにUSスズキから電話が入った。スズキのGS750開発責任者(二輪設計部部長)の横内氏が来ているので会ってみないか、という内容だった。横内氏は1974年からスズキ・レーサーグループの責任者を務めていた。これ以前は市販車のエンジン開発に携わっていて、1976年2月からはレーサーだけでなく市販車開発の責任者も兼任するようになっていたのだ。

実は横内氏はこの2月からGS750の実走テストでアメリカやヨーロッパを回り、一旦帰国し、再度市場調査ためにアメリカへやって来ていたから、POPと面会する機会が生まれたのだ。POPはUSスズキで横内氏と初めて会った。事前に4ストチューナーのPOPがGS750に非常に興味を抱いている、とUSスズキの社員が横内氏に伝えていた。スズキにとってもレース部門はロードレース(GP500)やモトクロス(GPやAMA)など2ストで手一杯で、4ストのそれも市販車改造となると経験はなく、著名な4ストチューナーのPOPからの話は好都合でもあった。会話はものの30分程度だった。

「吉村さんナナハンやりますか?」(横内氏)
「やりましょう」(POP)

契約書などはなく、男の口約束だけ。そして3つの約束を交わした。

1.エンジンチューニングはヨシムラ
2.車体はスズキ
3.お互い紳士的な付き合いをする

そして当面の目標を、1978年中に世界選手権クラスのレースで勝つということに定めた。お互い九州男児(横内氏は宮崎県出身)、技術者同士。初対面なのに最初から不思議な信頼感があった。スズキはGS750を正式に発表(10月)し、販売を開始(日本で11月1日発売)。ヨシムラの地元カリフォルニアの各ディーラーのショールームにも年内には飾られた。ただ、なかなかヨシムラに届かず、1977年開幕戦は従来のZ1で臨むことになった。

ヨシムラは1977年2月のワークショップの火事・マシン焼失・POPの大火傷という事件を乗り越え、1977年AMAスーパーバイクシリーズに参戦していったが、2位が最高で優勝を果たせずいた。優勝するのはハンドリングに優れたドゥカティ、モトグッツィ、BMWなどヨーロピアンツインばかりだった。そんな中アメリカの市場にはGS750やGS550が出回り、アマチュアライダーが各地のプロダクションレースに参戦していた。ヨシムラの地元カリフォルニアのアマチュアライダーにとって最大のイベントであるオンタリオ6時間レース(4月24日)でもGS勢が参戦し、好走していた(GS750/845:総合7位、GS550:550ccクラス優勝)。そして6月、ついにヨシムラに2台のGS750が届けられた。公式なデビュー戦を9月11日のAMAスーパーバイク第6戦ラグナセカ(カルフォルニア州)と定めた。

1977年AMAスーパーバイク仕様のヨシムラ・スズキGS750/944。1977年までマフラーはSTDルックを保つ規制のためSTDのシェル(外皮)を使った2本出し。リアショックがSTDより前傾しているのがよくわかる。ホイールはモーリス製マグネシウム(砂型鋳造。F:19、R:18インチ)。タイヤはこの頃の4気筒だとフロントに溝付きレースコンパウンド(ミシュランPZ2)、リアにスリック(グッドイヤー)を履くのが一般的。バンク角確保のためにエンジン左カバーが斜めにカットされている。この対策には小さなインナーローター式ACGが必須(STDのアウターローターは外径が大きい)。

GS750をスーパーバイクレーサーにするために、やることは山ほどあった。エンジンは1000ccまでボアアップ可能というレギュレーションだったから、ストローク長56.4㎜はそのままに(ストローク変更禁止)、ピストンをSTDのφ65㎜から日本でモリワキが製作した鋳造φ73㎜に交換し、944ccまで排気量をアップさせた。このモリワキφ73㎜ピストンは、4輪ホンダ・シビック用レーシングピストンをベースに加工されたものだった。カムはSTDの加工前の品物を使ってハイカムを製作。ポーティングをはじめ、各部をフリクション低減のため徹底して加工した。

車体はスズキ、という横内氏の言葉通りにサスペンションはスズキがGPテクノロジーを投入した最新の物が用意された(ファクトリーレーシングパーツだ)。リアショックは、スズキGPレーサーRG500で使用されるKYB製ガス封入式をGS750用にモディファイしたもの。このKYB製リアショックは

「ダンパーロッドを回して減衰力調整ができたし(6段)、イニシャル調整。スプリングプリロード調整もSTDのようなカム式(数段ある)ではなくて、クリップ式。スプリングもレートが違う2つ(2段スプリング)を使う。GP用はこうなんだと思ったよ」(不二雄)

今でこそ当たり前のガス封入倒立式リアショックは、当時はファクトリーマシン用か、極一部にモトクロッサー用として市販しているだけだった。従来のオイルだけが入った正立式よりも減衰力性能が格段に高く、しかも圧力をかけた窒素ガスでオイルを抑え込んでいるので泡立ちにくいから、ダンパーがタレてしまうことも抑制できるものだった。

そしてこのリアショックはレイダウンマウントされた。アッパーマウントはSTDよりだいぶ前の下にあり、リアショックはかなり斜めになる。2本サスのレイダウンマウントはスズキがモトクロッサーをロングストローク化する際に開発し、RG500にも使用された技術で、その後のリンク式モノショックまではいかないが、STDの2本サスよりもレバー比を稼げ、ストロークも路面追従性も格段に上がる。さらにスイングアームはSTDを補強し装着。今でこそ当たり前のガス封入倒立式リアショックは、ファクトリーマシンやモトクロッサー用に一部がチューニング用として市販しているだけだった。レイダウン加工やスイングアーム補強はヨシムラが行った(当然Z1もレイダウンしてあった)。

実はSTDに見えるフロントフォークも三つ又(上下フォークブラケット)もファクトリーパーツだった。GS750のSTDフォークがφ35㎜なのに対して、これは大径なφ36㎜で、ボトムケースは削り出し。当然三つ又も削り出しだった。これらはエッジをペーパーがけして丸く仕上げたりしているので、STDに見えるが……。また、エアフォーク(エア加圧式。フォークキャップにエアバルブがある)も当時の最新技術だった。

こうしてスズキのGPのシャーシ技術や最新4ストエンジンと、ヨシムラのエンジンを中心としたチューニング技術が詰め込まれたヨシムラ・スズキGS750/944は、従来のスーパーバイクとはまったく次元の異なる物になっていた。

9月のAMAデビューを前にヨシムラは8月7日に地元オンタリオで開催されたAFM(American Federation of Motorcyclists)のローカルレースにGS750(スティーブ・マクラフリン)とZ1(ウエス・クーリー)を参戦させた。2台は改造範囲がAMAより広いオープンスーパーストリートクラスに出走。ヨシムラGS750/944はマシントラブルでリタイアしたものの、別クラス(GPオープンクラス)に参戦していたヤマハTZ750(2スト750cc市販レーサー)と遜色ないラップタイムをマークし、マシンのポテンシャルの高さを確認できた(優勝はブッチ切りでヨシムラZ1)。

1977年最終戦リバーサイドの夕陽に輝くヒーローたち。1977年は第6戦ラグナセカでS・マクラフリン(左)がGS750/944で、最終戦リバーサイドはW・クーリー(右)がZ1でと、シリーズ最後の2戦をヨシムラが連勝して終えた。どちらのサーキットも趣きが異なるコースレイアウトだが、どちらも高いハンドリング性能が要求され、2戦とも最高のハンドリングマシンと言われたドゥカティ750SSに競り勝ったことは大きな収穫だった。

そして9月11日のAMAデビュー戦ラグナセカ。GS750/944のS・マクラフリンはポールポジションから“カリフォルニア・ホットロッド”ドゥカティ750SS(883→905㏄)と5~20ラップ(全20ラップ)まで熾烈なマッチレースを展開。ラグナセカは有名な頂点で左→右に切り返しながら急降下する“コークスクリュー”がある低中速のマウンテンコース(前半はアップヒル、後半はダウンヒル:フロント回りの剛性が必要だ)と言われるが、実はストレートがほとんどない中高速コーナーの繋ぎ方が難しいハイスピードコーナリングコースだ。マシンにはパワーとハンドリングの高いバランスが、ライダーには見えない次のコーナーへアプローチする勇気と読みと技術が要求される(テクニカル=低中速ではない)。また、当時のラグナセカは現在と違ってインフィールド区間はなく、左回りで大半が左コーナーだった(3.058㎞。現在は3.602㎞)。

レースが進むとGS750/944に問題が出てきた。エンジン左のジェネレーター(ACG)カバーを擦り付け過ぎたのか、少しオイルが漏れてきたのだ。エンジン幅は並列4気筒の泣き所で、このためGS750/944はSTDのアウターローター式ACGからスズキが提供した国産電機製インナーローター式に交換し(点火もフルトランジスタ→CDIに)、ジェネレーターカバー下側を斜めにカットしてバンク角を稼いでいたのだが。それでもGS750/944はデビューウィンを飾った。

「こいつは世界で最もパワーがある4気筒だぜ」(S・マクラフリン)

もう少し正確に言うなら、最高のパワーとハンドリングを持った世界初のインライン4気筒マシンということだ。20ラップを20分09秒18、平均速度90.645mph(約145.8㎞/h)のニューレコードだった(この年の優勝平均速度は100.982mph≒162.5km/h)。そして1977年AMA最終戦(第7戦・10月1日)リバーサイド(カリフォルニア州)では、ラグナセカでチェーントラブルによってリタイアに終わったW・クーリーがZ1で初優勝を飾った。これは本人にとってもヨシムラにとっても本当に嬉しい勝利だった。スタートから飛び出したS・マクラフリン(GS750/944)は、エンジントラブルでリタイア。W・クーリーは、またしても宿敵C・ニールソンとチェッカーフラッグまで大接戦を演じての優勝だった。

1977年AMA最終戦リバーサイドの決勝序盤(リバーサイド・インターナショナル・レースウェイ・カリフォルニア州)。2台のヨシムラスーパーバイクがレースを引っ張った(2台一緒に写る貴重なカット)。S・マクラフリン(前・GS750/944)はこの直後にリタイアし、W・クーリー(後ろ・Z1)が初優勝。マフラーはSTDシェルで集合管ではない。

こうしてAMAスーパーバイクは一時代を終えた。1978年からはヨシムラ念願の集合管使用が解禁になる。そしてスズキはフラッグシップモデル“GS1000”をリリースした。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。