モトクロスライダー辻 健二郎が2013年、AMA-SXに参戦! Vol.11~後日譚~

掲載日:2013年06月19日 ツジケンAMA-SX参戦記    

文/辻 健二郎

モトクロスライダー辻 健二郎が2013年、AMA-SXに参戦! Vol.11

アプローチまでは長かったが、いざエントリーしたらあっという間に終わってしまったツジケン選手のスーパークロス参戦。スーパークロスシーズンが終了してからご無沙汰してしまいましたが、今回からしばらく、彼を強力にバックアップしてくれた方々のご紹介をします。

モトクロス人生の先輩でもある
ニシムラトレーディング

みなさんご無沙汰してしまいました! スーパークロスが終わった後もそれからの事を考えたり、ジムさんのお手伝い、アメリカに居られる間中で習得出来るモトクロスに関連する事、とフルで動く用事は山程ありました。最後にスタジアムを走ってからだいぶ時間が経ち、落ち着きも取り戻しましたので、しばらくこんなオレを熱烈にサポートしてくれた人たちについて、触れていこうかと思います。

 

1発目は、オレのスーパークロス参戦用マシン、ホンダCRF450Rのシュラウドやフォークガードに入った、日の丸をデザインに作られたロゴ 『NISHIMURA TRADING ITALIA』 について。ここは、京都にある輸入会社です。モトクロスの世界ではあまり聞かない会社かと思いますが、何故そんなところがスポンサーなの? というのは、この会社の代表である西村 重雄さんによります。西村さんは、1980年代後半から1990年前半に掛けて、全日本やAMAモトクロスに参戦していた経歴を持ちます。当時、スタイリッシュなライディングフォームで「アメリカンみたいなライダーだなー」、というのがオレの印象でした。

 

そんな西村さんは15歳の時に貯金を叩いてバイクを買い、そこから強い想いをモトクロスに注ぎ続け、めきめきと実力をつけて行きました。そして、当時行われていたジャパンスーパークロスで、京都に訪れていたジムさんのライディングスクールに参加した際、そこでUSトレーニングに誘われ、会社を辞めていきなりアメリカで修行を始めたのです! そんな西村さん、ライダーとしてもアメリカ生活においても、オレにとって逞しい先輩です。同時期には、アメリカに医療関係の勉強で来ていたDr.K氏(オレの首や膝の怪我でお世話になっているリハビリの先生)とも、“ジムさんハウス”で共同生活をしていたと言います。西村さんと自分が知り合うきっかけになったのもジムさんハウスがポイントで、Dr.kから紹介していただいたのが縁です。

 

そんな西村さんの偉業が、ひとつあります。1991年と翌年にはアリーナクロス、AMAナショナル、スーパークロスに参戦し、当時はまだ少年だったハマー(高浜 龍一郎 編注:ホンダ系のライダーで、現チームハマーの監督)を、アメリカで走らせるサポートも手伝いながら生活していた頃の話しです。帰国前に、たまたまジムさんの代役で行ったUS雑誌のマシンインプレッションで、なんと表紙を飾ったのです! 何か、その数日前にはアメホン(アメリカンホンダ)のスーパークロストラックを無断で走っていた事が問題になっていたみたいですが、たまたま取材現場に居合わせた関係者が問題を解決してくれた、という破天荒な話も聞きました。モトクロスライダーは、基本、今も昔もやんちゃですね。

 

その後は、一線を退かれ今の事業に転身されました。当時のニシムラトレーディングは、現在ではごく普通に用いられているワンタッチテント “ラピッドテント” を先見の明でいち早く取り扱い始め、このタイプのテントが広まるきっかけを作られました。現在も自社でテントを製造していて、クォリティの高い製品を提供しています。その他、現在、新しく取り扱っているのが、“ペレットストーブ”というものです。これは、ペレットという木材から作った燃料を使用するストーブで、石油ストーブと違い、灯油のにおいや油を取り扱う危険が少なく、誰にでも安心して扱う事が出来る商品です。薪を燃やすようにストーブの中に見える炎が心地良さを感じさせてくれ、暖かい空間を作りだしてもくれるようです。昨今の石油燃料の高騰から、経済的効果も見込めると言います。西村さんは、今年(2013年)の4月からペレットストーブの良さを伝えに、全国を周っています。興味を持たれた読者は、是非問い合わせてみて下さい。バイオマスエネルギーの観点からも注目されている商品です。

 

こんな西村さん、オレには、挑戦、人生の指導、支援者と大先輩として力、知恵を授けてくれています。皆さんにも素晴らしいモノ伝えてくれる西村さんであると、自信を持って紹介します!

 

<イタリアNo.1メーカー“EDILKAMIN”>

 

辻君へ(西村 重雄より)

この際ですから、いろいろ書きます(笑)

 

アメホンのSXテストコースは昔、JIMさんの家から車で20分くらいのシミバレーというところにありました。コースの入り口には門があり、ダイアル式の鍵がかけてあったのですが、当時僕たちとAMAナショナルを一緒に周ってくれていたカメラマンの柴田さんが、JMB(ジャン・ミッシェル・バイル、1991年スーパークロス・ナショナルチャンピン)からその鍵の番号を聞き出してくれたのです。その番号を知ったからには行くしかない、ということで、高浜 龍一郎とメカの平ポンさんと勝手に入り込んでいました。

 

すると、コースではLAでのSX最終戦を前にしたジェフ・スタントンが練習している。“変な奴らが来たと”思われたのかさっさと練習を切り上げたスタントンに、一言だけ質問。「ここは誰でも走っていいのかな?」(勝手に鍵を開けて入ってきたくせに!) 彼は、I think it's no problem as log as you ride Honda.(ホンダに乗っている以上は問題ないと思うけど)、と相変わらず無愛想な話し方で一言残し去っていきました。確かに僕らのバイクは、ホンダCRでした。

 

そのコースはジャンプ台がそこら中にあり、なるほど、やつらはいつもこんなところで練習しているのか、と納得させるだけの難しいコース。最初はまともに走る事が出来ませんでした。それから、何回そのコースに無断侵入したでしょうか? 覚えていませんが、ようやくコースを攻略出来て自信が付いてきた頃に、LAのSXレースが開催。しかし、実際のSXコースはもっともっと難しく、特にあの頃のコースはジャンプ台の角度が凄かった。

 

LAのSXレースが終わって、もうそろそろ日本へ帰るかと考えていた頃、日本では賞金500万円というレースがあったので、「そのレースに出てみるか」と思い、またシミバレーのアメホンのコースへ練習に行きました。コースでは素人アメリカ人ライダーが2人が走っており、「何だ、誰でも入れるのかココは」と思って練習している時、トランポの横でポリスが立っているではありませんか。

 

「ここはアメホンの私有地だから無断侵入の罰で逮捕する!」といきなりピストルを向けられ、手錠をかけられました。げげ~、もうこれで3回目じゃ、アメリカでピストルを向けられるのは~(1回目は高速道路で飲酒運転者と間違いられ止められた時、2回目はデザートライディングで、それまた立ち入り禁止の土地での練習中に管理人にピストルを向けられた時)。ポリスは地元シミバレーの警察官で、真正面と左右の僕の顔写真を撮り、いろいろ書類をチェックして、「そのうち電話するからシミバレーの裁判所へ来なさい」と言って仮釈放してくれた。もうそろそろ日本へ帰るための航空券を買おうと思っていたのに、これは困ったもんだ! まだ寿司屋でアルバイトもしていたので、すぐに日本へ逃げて帰る事も出来ない。

 

ある夜、いつものように寿司屋のキッチンで忙しくオーダーを入れていた時に、キャッシャーの人が「お前に電話だ」と言うので、電話に出ると、それはJIMさんだった。「Hey, Shige, I have a test riding for Dirt bike but I can't go because I have another appointment. Can you go for me?」と言って、コースの場所と時間を教えてくれた。翌朝コースに行くとアメホンのトラックとテストバイク(1993年製CR125)、そして雑誌“DIRT BIKE”のカメラマンたちがいた。テストコースでは適当に体を慣らしてから、コーナーとジャンプの写真を何度も撮られた。雑誌の写真のためだからスピードはどうでもいい、とにかく写真が派手にかっこよく写ればいいのだ。だから、土のバンクを使ってウイリーターンみたいな事をやってくれと頼まれた。撮影が終わった後、アメホンのアメリカ人が僕に近寄り、「君はもしかして先週シミバレーのテストコースで捕まった日本人か?」と聞いてくる。僕、「そうなんです、話によると、結構罰金が高いらしく、困っているんです。僕はもうすぐ日本へ帰ろうと思っているし、もし罰金が高ければしばらく日本へ帰れなくなるかも……」。すると、そのアメホンのアメリカ人は、「シミバレーの裁判官を知っているから、僕が一回話してみるよ、僕の電話番号を残すから、明日電話してきて」、と親切に言ってくれた。そして翌日、彼に電話すると、いとも簡単に「No probrem! You don't need to go to Simi Valley's court.」と言ってくれ、罰金を逃れる事が出来たのだった!

 

そして晴々、日本へ帰国する事が出来、2年間に及ぶ、人生の中でも最も激しい変化に富んだ、また感動的で躍動的な時間を終え、地元に帰って一息ついていると、アメリカから1つの雑誌の入った封筒が送られて来た。送り人は佐藤 啓三さんからで、その中には2冊のダートバイクマガジンが入っており、その表紙がなんと僕のコーナリングの写真になっているではないですか。中の記事を読むと、僕の事が白黒の写真の下にこう書かれてある。

 

“シゲオ・ニシムラ(スペリング通りに発音する)はテスト中に日本までジャンプして帰ろうとしたので、私たちは彼の定期航空券を解約しなければならなかった。”

 

これを見た時、2年間の、モトクロスを愛したアメリカ生活に対する神様からのおみやげをもらったような気持ちになったな……。

 

--以下、略。

 

 

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プロフィール

辻 健二郎

辻 健二郎

1975年8月8日 山口県徳山市(現 周南市)生まれ

父親の影響で3歳の時にモンキー(ホンダ)を緑地公園で乗せてもらったのが初ライド。週末は、家族みんなが父親のモトクロス練習&レースについて行く。そんな環境下、行った先で山の中を草木や泥にまみれて遊ぶのが日常だった。これが彼のバイクライフの原点になる。自己評価は、ポジティブに捉えると真面目で実直と言われるが、見方を変えれば頑固で自分を曲げない性格、との事。不器用だからスムーズに事が進まないが、この性格を理解してくれる周りに支えられ、モトクロス道を進んで来ている。大好きなボブ・マリーの曲、"JAMMIN'"から名前を取ったバイク仲間との倶楽部も活動中。何事も「enjoy!」が信条。

 

なお、随時申し込みがあれば個別のスクールを実施しているので、「ツジケンに教わりたい」と思ったライダーはぜひ問い合わせて欲しい。

【モトクロス塾】

 

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