1996~1998: New Aluminum Twin- Spar Frame GSX-R750 Comes On Stage.

1996年、ついにアルミツインスパーフレームになったGSX-R750。エンジンは新型水冷で、前傾25度に搭載し、吸気系はダウンドラフトと最新の設計だ。AMAスーパーバイクのマシンはスズキ本社設計のファクトリーマシンで、前後サスのSHOWA、フロントブレーキキャリパーのap6Pを採用。また、同じファクトリーマシンでもデイトナにスポット参戦したスコット・ラッセル車と全日本用は前後にKYBのサスを装備。ヨシムラの全日本・鈴鹿8耐仕様は前後オーリンズと、様々な仕様が存在した。
Tomoya ISHIBASHI
エンジンは前傾25度に搭載され、アッパーカウル両サイドにダクトを持つSRAD(Suzuki Ram Air Direct)システムのラムエア吸気で、大容量エアクリーナーボックスから続くのはダウンドラフトのミクニBDSRΦ39mm4連キャブレターだ。
そして3分割クランクケースを採用し、クランクシャフトとミッション2軸を三角形状に配置するなど、エンジン前後長を短縮し、エンジン全体は非常にコンパクトに設計された。
フレームは、GSX-R750伝統のアルミダブルクレードルから、シリーズ初のアルミツインスパーフレームに進化した。GSX-Rシリーズでは、1988年型GSX-R400がスズキ初のアルミツインスパーフレームを採用しているが、750ccではもちろん初だ。まるでGP500マシンRGV-Γのような構成で、高剛性かつ剛性バランスにも優れたものだ。
こうして1996年型GSX-R750Tは、130ps/11,500rpm、乾燥重量179kg(1985年型初代GSX-R750と同重量の軽量化)、ホイールベース1,400mm(GP500マシン1993年型RGV-1Γと同じ)という“レーシングマシン”のような高出力・軽量・コンパクトさを市販車で実現した。

1996年開幕戦デイトナの750スーパースポーツでは、ヨシムラスズキの#9アーロン・イェーツと#21パスカル・ピコットが他を圧倒して1-2体制を築き、そのままゴール。ほぼ無改造のこのクラスで新生GSX-R750は、そのポテンシャルの高さを証明する形になった。
Tomoya ISHIBASHI
1996年、この新型はAMA750スーパースポーツでいきなり結果を出した。この無改造クラスはマフラー、リアショック、フロントフォークのインナーキット(スプリングとダンパーピストンのキット)、ステップぐらいしか交換できないから、ベースモデルの性能がモノを言うクラスだ。10戦中ファクトリーチームのA・イェーツが5勝、P・ピコットが4勝、サテライトチームのマイケル・バーンズが1勝とGSX-R750Tが全戦全勝し、A・イェーツはチャンピオン、P・ピコットとM・バーンズがランキング2-3位と完勝だった。

1996年、デイトナ・750スーパースポーツのビクトリーレーン。手前は2位のP・ピコット車。溝付きタイヤはダンロップ。チューニングが許されるフロントフォークのダンパーキットはRACE TECH製で、ブレーキパッドはsbs製。顔が見えているのが優勝したA・イェーツ。奥に3位のダグ・チャンドラー(マジーカワサキ)。この当時はスーパーバイクと750 or 600スーパースポーツへのダブルエントリーは当たり前だった。
Tomoya ISHIBASHI
AMAスーパーバイクは、P・ピコットとA・イェーツにM・ムラディンを加えた3人体制で臨んだ。開幕戦デイトナ200マイルには、この3人に加えGP500チーム(ラッキーストライクスズキ)のスコット・ラッセルがスポット参戦した。S・ラッセルのマシンは、GPチームと同じラッキーストライクカラーで、ここまでデイトナ200マイルで3勝しているデイトナマイスターだ(結局1998年までにデイトナで5勝する)。
決勝は、そのS・ラッセルが、アメリカンホンダ(RC45)のミゲール・デュハメルとのマッチレースになり、僅か0.01秒差で惜しくも2位。P・ピコットは4位、A・イェーツは7位、M・ムラディンは11位だった。
シーズンでは10戦中1勝のP・ピコットがランキング5位、同じく1勝のA・イェーツがランキング6位、未勝利だったが表彰台3回で上位入賞が多かったM・ムラディンがランキング4位と、ニューマシン初年度としては健闘した。

1996年型の全日本仕様GSX-R750(芹沢車)。これはシーズン前の仕様で、本番車ではサスはSHOWAではなく前後オーリンズに交換された。キャブはミクニTMR40+MJNで、スズキファクトリー車は仕様が異なるがMJNを装着。
Yoshimura Archives
全日本スーパーバイクは芹沢太麻樹を2年連続で起用。ただ、GSX-R750Tのチューニングに手こずり、芹沢もマシンをモノにしきれず、ランキング11位に終わった。スズキファクトリーは、藤原克昭がランキング2位と健闘した。
鈴鹿8耐は芹沢/浜口俊之で臨み、12位だった。スズキファクトリーは、ラッキーストライクスズキの藤原克昭/梁明が6位、SERT(カストロールスズキ)のD・ポーレン/エリック・ゴメスが9位、SBK(TEAMスズキWSB)のカーク・マッカーシー/ジョン・レイノルズが10位(D・ポーレンは1996年からスズキに復帰)。期待されたラッキーストライクスズキのS・ラッセル/テリー・ライマーはリタイアに終わった。
GSX-R750Tの2年目の1997年は、まず、AMAの750スーパースポーツでGSX-R750Tは10戦全勝。8勝したジェイソン・プリッドモアはチャンピオンを獲得(彼は、1976~1978年AMAスーパーバイクチャンピオンのレグ・プリッドモアの息子だ)。残る2戦はマリオ・デュハメルと、1996年からスズキに戻ったD・ポーレンが優勝した。
そしてP・ピコットとA・イェーツは、新型GSX-R600でAMA600スーパースポーツにファクトリー参戦した。P・ピコットが10戦中4勝したが、6ポイント差で惜しくもランキング2位に終わった(チャンピオンは4勝のホンダのミゲール・デュハメル)。A・イェーツは2勝したランキング3位だった。
GSX-R600は750からボアで-6.5mm、ストロークで-1.5mmのΦ65.4×44.5mm、599.5c。外観は750に対してΦ43mm倒立フォークがΦ45mm正立フォークに、スイングアームで補強がない程度の差しかなく、キャブのミクニBDSRがΦ39mmからΦ36mmになっていて、乾燥重量174kg(750は179kg)、ホイールベース1,390mm(750は1400mm)、106㎰(750は130㎰)という軽量、コンパクト、ハイパワーな600ccのスーパースポーツモデルに仕上がっていた。
600スーパースポーツは、AMAでは1986年から全米選手権となり、世界でも1997、1998年にワールドシリーズが開催され、1999年からは世界選手権に昇格してSBK(スーパーバイク世界選手権)との併催になる。以後無改造プロダクションレースの中核となっていく。

1996年鈴鹿8耐、2コーナー付近で。集団先頭は#12芹沢(ヨシムラスズキGP1プラス)。続いて#78青木治親(ウルトラマンRT桜井ホンダ・RC45・青木兄弟の三男で、ペアは長男篤)、#8梁(カワサキRT・ZX-7RR)、#11アーロン・スライト(Castrol HONDA・RC45)。
Osamu KIDACHI
1997年、AMAスーパーバイクでは未勝利に終わり、A・イェーツがランキング5位、P・ピコットがランキング6位、ダートトラックのトップライダーからロードレースに転身してラリー・ペグラムがランキング8位だった。
全日本スーパーバイクは、芹沢がランキング8位、鈴鹿8耐の準備で鈴鹿200kmにスポット参戦の小西良輝が1ポイント(15位)をゲットし、ランキング39位だった。スズキファクトリーは藤原克昭がランキング2位と健闘した。
雨となった鈴鹿8耐は、芹沢/小西が一時3番手を走るが、追い上げてきたホンダファクトリーのアレッシャンドロ・バロスが小西と接触し、小西だけ転倒。ピットで修復後、再スタートしたが、再び転倒しリタイアした。
スズキ勢はチームラッキーストライクスズキのピーター・ゴダード/D・ポーレンが5位。そして2人はEWC(世界耐久選手権)の世界タイトルを獲得した。D・ポーレンはこれでSBK世界チャンピオン(1991、1992年ドィカティ)、EWC世界チャンピオン(1997年スズキ。1998年はホンダに移籍し2年連続タイトル獲得)、AMAスーパーバイクチャンピン(1993年ドゥカティ)、全日本TT-F1&F3 チャンピオン(1989年ヨシムラ)、鈴鹿8耐(1994年ホンダ)と、世界の4ストロークビッグタイトル/レースを制したことになる(デイトナ200マイルだけは勝てなかったが)。

1998年、TL1000Rでデイトナのインフィールドを行くヨシムラのL・ぺグラム。TL1000Rはスズキ本社ファクトリー仕様だが、パワー不足に悩まされた。AMAでは、EFIのスロットルボディが大径の公認されたレース用(SBK)ではなく、STDを使わなくてはならず、それもパワー不足の要因の一つだ。
Tomoya ISHIBASHI
1998年、GSX-R750(W)に改良が加えられた。BDSRΦ39mmキャブから電子制御燃料噴射(EFI)になり、しかもバタフライスロットルバルブを持つスロットルボディはΦ46mmだ(キャブではこれだけ大口径にできない)。制御は低回転時では主にエンジン回転と吸気圧で、回転数と負荷が増すに従って主にエンジン回転数とスロットル開度で空燃比を算出する2ステージシステムを採用。点火はダイレクトCDIイグニッションコイルだ。また、シリンダー冷却通路はオープンデッキからクローズドデッキになりシリンダーの強度がアップ。さらに、様々なパーツの軽量化、カムプロフィール変更、クロスミッション採用など、多岐に渡って改良されていた。
そしてAMAスーパーバイクには、もう1モデル新機種が加えられていた。2気筒1000ccのTL1000Rだ。4気筒は750ccまで、2気筒は1000ccまでというスーパーバイク規定に合わせた期待の車両だ。水冷90度VツインDOHC4バルブ、ボア×ストロークΦ98×66mm、996ccエンジンを、アルミツインスパーフレームに搭載する。電子制御燃料噴射で、インジェクターはインテークポートに2本装備。135ps/9,500rpmを発生するハイパーツインだ。

1998年全日本で、EFI仕様GSX-R750を駆るスズキファクトリー#6梁と競り合うキャブ仕様のヨシムラ#45浜口。後方はプライベートでホンダRC45を走らせる#36宗和孝宏。
Osamu KIDACHI
ただし、AMAでは新型GSX-R750のホモロゲーションが1年遅れ、1999年からの登場となる。また、全日本・鈴鹿8耐を戦うヨシムラは、熟成度からあえてキャブ仕様(ミクニTMRΦ40mm+MJN)を、対してスズキファクトリー(北川圭一、梁明)はEFI仕様を、と選択が分かれた。さらにスズキファクトリーの渡辺篤は、開発のため前半TL1000Rで参戦した(後半はGSX-R750で参戦)。
AMAスーパーバイクは、キャブ仕様の従来型4気筒GSX-R750にM・ムラディンとA・イェーツ、2気筒の新型TL1000RにL・ペグラムとスティーブ・クリビエという布陣となった。シーズンはM・ムラディンが1勝し、ランキングは3位に、A・イェーツは2勝し、ランキングは5位に終わった。2気筒1000ccではS・クリビエはもう少しで表彰台の4位1回、トップ10フィニッシュ13戦中9回と健闘しランクング7位。L・ペグラムはランキング10位だった。
600スーパースポーツには、引き続きヨシムラスズキとしてファクトリー参戦。S・クリビエが13戦中1勝に終わったが、毎戦確実に上位に入り、見事自身AMA初のチャンピオンを獲得した。L・ペグラムはランキング8位、2勝したA・イェーツはランキング10位だった。また、アメリカンホンダ入りする前のニッキー・ヘイデンがハイパーサイクルスズキで参戦して1勝し、ランキング4位となった。750スーパースポーツはプライベーターの戦いで、1勝のリチャード・アレキサンダーが初タイトルを獲得。最多の5勝をあげたN・ヘイデンがランキング4位になった。

1998年鈴鹿8耐仕様のGSX-R750。あえてミクニTMRΦ40mm+ヨシムラMJNのキャブ仕様で臨んだ。サスは前後オーリンズ。フロントブレーキキャリパーはニッシン6P(前後レインタイヤはトラベル=移動用)。
Osamu KIDACHI
全日本スーパーバイクは浜口で臨み、開幕戦もてぎで5位と好スタートを切ったが、これがシーズン最上位となってランキング9位に留まった。また、鈴鹿8耐前哨戦の鈴鹿200kmに真夏の決戦の準備でスポット参戦した小倉は、11位で5ポイントを得た。
そんな浜口/小倉で挑んだ鈴鹿8耐は、スタートライダーの浜口がファクトリー勢と互角の走りで気を吐き、小倉に繫いだが、交代から僅か10ラップでエンジントラブルが発生し、ピットイン。リタイアに終わった。
そして1999年、ヨシムラは、全日本と鈴鹿8耐である挑戦を開始した。決まりに左右されず自由にマシンを作る、Unlimitedな戦いに身を置くことになっていく。