【ヨシムラヒストリー09】会社乗っ取りに負けず、新生YOSHIMURAでアメリカ再上陸

アメリカでの“ヨシムラ”ランチタイム(シミバレー時代)。直江ママ手作りのカレーライスは日本人従業員ばかりではなくアメリカ人にも大好評だった。ゴッドハンドの妻は世界最高の料理の腕を持っている、と振る舞われ、仲の良いお客さんからも評判になった。

【ヨシムラヒストリー09】会社乗っ取りに負けず、新生YOSHIMURAでアメリカ再上陸

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
  • English Page >>
  • 掲載日/2019年12月24日

1972~1975 Starting Over:New Base“YOSHIMURA R&D OF AMERICA”

念願のアメリカ進出を叶えたヨシムラ。その未来は正にアメリカンドリームのように輝いているかに見えた。1972年末にロサンジェルスからほど近いシミバレーに設立した“ヨシムラRACING”は、翌1973年3月のデイトナでのスピードチャレンジ(Z1で数々の速度世界記録樹立)、6月のマン島TTプロダクションクラス優勝、8月のボンネビルスピードウィークでの世界記録挑戦(7つの速度世界新記録樹立)、9月のボルドール24時間レースでの上位入賞(ヨシムラZ1エンジン搭載車)など大きな成果を上げた。POPや不二雄の希望通りにヨシムラはアメリカだけでなく世界にそのパワーと名を知らしめた。

時代の主役はホンダCB750 FOURからカワサキZ1に代わっていた。当然Z1用集合管は大人気になった。Z1用集合管は手曲げと機械曲げ(サイレンサー付き)の2種類を用意した。

けれども、新会社の実情はまったく逆だった。アメリカ人共同経営者のデール・アレクサンダーとスター・トンプソンは、ビジネスの成功をクルマなど派手に浪費するだけ。そればかりか、日本への支払いが滞っていた。集合マフラー、カム、ピストンなどのチューニングパーツは日本の秋川(ヨシムラコンペティションモータース)で生産し、それらをアメリカへ輸出する形を取っていた。日本で経理を務めていた吉村家の長女・南海子は、アレクサンダーたちからの入金がないことを頻繁にPOPに問い詰め、アレクサンダーが来日したときは厳しく催促していた。

パーツは売れる。そのパーツを生産する。材料費、外注費がかかる。その支払いをしなければならない。当然だ。POPも南海子の言う実情はわかっていた。けれども

「ヨシムラRACINGは俺の会社だ。俺がアメリカへ行けば事態は改善する」

とPOP。アレクサンダーも渡米すれば未払い分を清算するとの趣旨を伝えていた。

ケーヒンCRはヨシムラの目指すチューニングにはなくてはならないレーシングキャブだった。集合管、ハイカム、ボアアップピストンなどの自社製パフォーマンスパーツと同じく日本からアメリカへ送られていた。

元々南海子と、彼女の夫・森脇護はアメリカ人2人には懐疑的だった。どうも怪しいのだ。そんな思いもあって南海子とPOPは未払いの件で激しく対立し、ついにPOPは南海子たちに「出ていけ!」と言ってしまった。2人は数日後に秋川から出ていき、しばらくは神戸にいた。森脇は建設関係の仕事に就いた。

けれども、やはりバイクやチューニングの仕事がしたいと、南海子の発案で三重県鈴鹿に移り、1973年9月30日“モリワキエンジニアリング”を設立した。追い出した父POPを見返してやろうという意地もあった。一方でPOPや新会社に何かあったらバックアップしなければならないという思いもあった。森脇は南海子に「帰る場所と作業出来る場所を準備しておきたいと言った。

長女・南海子と夫・森脇護は独立して1973年9月30日、鈴鹿にモリワキエンジニアリングを設立した。森脇はライダー/ドライバーとして優秀だっただけでなく、物の原点から考える理論的な発想と、柔軟な感性を持ち合わせる独特なチューナーでもあった。「父とは考え方がまったく異なるから、あの事件がなくてもいずれ独立したでしょう」と後に南海子は語っている。特にフレームに関しては森脇は独自の理論と手法があった。

南海子たち夫婦が出て行った後、POPは秋川工場の処分を進めた。1974年1月には工場敷地の売却が決まり、3月には工場を処分した。そしていよいよ渡米という頃POPは、工場の工作機械を引き取るために鈴鹿から来ていた南海子たちの前で吐血してしまった。POPは以前から高血圧で、それで気管から出血したのだ。幸い脳などからではなかった。約1ヵ月の入院でPOPは無事回復した。

実はPOPはアメリカ移住を決めてから、森脇夫婦に秋川の工場に戻ってほしいと打診していたが、これは鈴鹿で新会社設立をしたばかりで断られた。1974年5月にPOPは妻の直江や数人のメカニックを伴ってアメリカへ渡った。これで福岡県雑餉隈・雁ノ巣の吉村モータース、東京都福生・秋川のヨシムラコンペティションモータースと続いた日本のヨシムラは消滅。POPは完全に退路を断ち切り、アメリカのヨシムラRACINGで勝負をかけた。

渡米してみると、状況は想像以上に悪かった。アメリカ人共同経営者は日本への未払いは清算しないばかりか、倉庫一杯の日本から送ったパーツ類の在庫に関しても所有権を主張したのだ。態度は高圧的で「お前はパーツを作っていればいい、経営には口を出すな」ということだ。POPと不二雄はアメリカ人の第3者を介入させ、この第3者はPOPたちの主張が正しいと認めたものの、裁判で第3者介入は無効、50対50の会社所有権も従来通りという判決が下ってしまった。つまりPOPたちは共同経営者にいいように会社を乗っ取られたのだった。

「この会社はくれてやる。だが、俺はまた必ず戻ってくる」

POPは2人のアメリカ人共同経営者に向かってハッキリと言った。裁判費用に約2万ドル、日本から持ち込んだ加工機械類だけでも2000万円以上、製作済みのパーツ類、そして“ヨシムラ”という名前まで失った。当時は1ドル約300円なので2万ドルは約600万円、2000万円は日銀の持家の帰属家賃を除く総合消費者物価指数から計算すると約1.8倍以上で約3600万円以上になる。要するに大金と名誉と名前を取られたのだ。そしてPOPと妻・直江は1975年1月3日に夢を託したアメリカから帰国した。

次女・由美子は加藤昇平と結婚し、1974年7月に“ヨシムラパーツショップ加藤”をオープンした。ショップといっても住居だったアパートと横の物置で始めたもので、昇平はまだ別の仕事をしていたので由美子が切り盛りしていた(神奈川県厚木市下荻野)。そして1975年2月に8畳ほどの店舗を借りて移転(神奈川県厚木市元町)。彼らのショップは、現在のヨシムラジャパン(神奈川県愛甲郡愛川町)のルーツでもある。写真は元町移転後で左から加藤昇平、加藤憲一(前ヨシムラジャパン専務・陽平の叔父)、由美子と長男・陽平(現ヨシムラレースチーム監督)、大矢幸二メカニック。この後ショップは神奈川県厚木市山際に移転する。

日本では鈴鹿のモリワキ、そして1974年7月に次女・由美子と夫・加藤昇平が神奈川県厚木に設立した“ヨシムラパーツショップ加藤”が再建に向けて全力でバックアップに当たった。モリワキでは手曲げ集合管を作り、より一般的な機械曲げは外注した。南海子は“敵”側からの受注を受けないように日本のパーツ製作メーカーに協力を仰いだ。カム加工メーカー、ピストンメーカー、そしてホンダやカワサキなど車両メーカー(未加工のOEMカム素材入手など)との技術的交渉は森脇が行った。また、POPとモリワキはきちんと契約書を交わし、モリワキで製造されたマフラーに対してモリワキがロイヤリティーを支払うようにした。これは会社乗っ取りの反省からでもあり、親子でもファミリーでもお互いの仕事や権利を尊重するためだった。これで得た資金はヨシムラ再生の重要な力になった。そして追い風も吹いていた。

アメリカはもちろん日本もヨーロッパも南半球も空前のビッグバイクブームが到来していた。POPも毎日深夜まで働きパーツを作った。その一部をイギリスのデビッド・ディクソン(ディクソンレーシング)やオーストラリアのロス・ハナに発送した。2人はフェアな人間で、POPや本家ヨシムラやモリワキの良き理解者だった。

イギリスの代理店ディクソンレーシングはヨシムラの良き理解者で、会社乗っ取り事件後も本家ヨシムラのパーツをヨーロッパで販売してくれた。写真はそのショップ前で。不二雄とヨシムラ製タンクや集合管を装備しカスタムしたZ1。

一方アメリカでは、ヨシムラとは敵の“ヨシムラRACING”のことであって、本家ヨシムラが簡単にパーツを売ることができない。残った不二雄は奮闘し買い手を探していたが、上手くいかなかった。
POPは1975年4月、再起をかけて1人渡米した。大きな問題が1つあった。カタカナ名の“ヨシムラ”が使えないのだ(商標登録されていたためだ)。そこで本家ヨシムラの新会社は英文字で

“YOSHIMURA R&D OF AMERICA”

とした。これは現在まで続く通称USヨシムラのことだ。1975年6月1日、この新生ヨシムラはロサンジェルス郊外のノースハリウッドでスタートを切った。

サイクルワールド誌1974年4月号では表紙でヨシムラチューンZ1が1/4マイル加速で11秒をマークしたことを大々的に伝えていた。当時は“ヨシムラRACING”時代だったが、中身はPOPや不二雄の手になる本物。アメリカでは4輪ホットロッド文化があり、パフォーマンスパーツへの理解度や価値感は日本とは完全に違っていたから、ヨシムラは正しく認知されていた。

これで日本で生産したパーツがアメリカで堂々と売れる。カワサキZ1の爆発的な人気もあり、集合管、カム、ピストン CRキャブなどの注文が殺到した。アレクサンダーたちの妨害工作はもちろんあった。不二雄のワーキングビザを無効にされ帰国させられたりもした。ただ、POPは負けなかった。危惧したのは彼らの偽“ヨシムラ”パーツをつかまされたお客さんのことだった。そこでPOPは本物と無償交換することにした。

その後、しばらくたって敵はデール・スター・エンジニアリングと社名を変えたが、倒産。裁判でもヨシムラパーツを日本からアメリカへ密輸入した罪に問われ有罪となった(要するに自前の飛行機で運び、関税を払っていなかった)。また、日本でパーツ製造などをしながら待機していた不二雄は、新たなビザを取得し1976年11月に無事渡米した。このような事件と平行して、アメリカではその後のバイク界を変革するムーブメントが起こっていた。市販バイクをベースとしたプロダクションレース“スーパーバイク”が始まったのだ。そしてその中心にいたのは、もちろん新生ヨシムラだった。

ポーティングするゴッドハンド。POPの作業は一見すると驚くほど荒っぽい。が、実は勘所を心得ていて、ザっと荒く、最後は繊細に行うので、作業時間は短く、最高の仕上がりになる。シミバレーでも、無念の帰国してからのモリワキでも、再建に向けてのノースハリウッドでも、POPはスタッフの先頭に立ちもくもくと働いた(すでに50歳を超えていた)。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。