【ヨシムラヒストリー07】世界初のバイク用集合管を発明

1971年初夏、秋川工場前で。CB750FOURエンジンとプロトタイプ集合管(左)。実走テストライダーは不二雄だった(左から3人目)。そして1971年10月のAMA最終戦オンタリオ250マイルに、このPOPの大発明はデビューする。

【ヨシムラヒストリー07】世界初のバイク用集合管を発明

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2019年8月9日

1969~1972 World’s First 4 into 1 Pipe for Motorcycle

1968年第15回東京モーターショー(10月26日~11月11日・晴海)でヨシムラにとっても、世界のバイク界にとってもエポックメイキングなモデルが現れた。ホンダが参考出品したホンダ・ドリームCB750FOURだ。量産車初の並列4気筒(SOHC2バルブ)を搭載した大排気量の750cc=ナナハンだった。そして翌1969年1月に世界最大のマーケットであるアメリカのディーラーミーティング(ラスベガス)で北米モデルが発表された。

ボア×ストロークは61×63㎜、排気量736㏄。最大出力は当時量産車最高の67馬力/8000回転で、0-400m加速12秒4、最高速200㎞/hと高性能を謳っていた。北米向けには4月から輸出が開始され、国内発表は7月18日、販売開始は8月10日からだった。

「実はバイクレースで転倒し右腕を骨折していたので東京モーターショーには行けなかったんだよ。でも、オヤジ(POP)は行って実車を見て、すぐに注文したと思う」(不二雄)

世界中の話題をさらった衝撃の4気筒ナナハン。一気に大人気になり、ヨシムラに届いたのがだいぶ後のことになった。

「クランクケースが砂型から金型になったK0だった」(不二雄)

CBナナハン初期型K0は最初期型が砂型クランクケースで、大量生産するためにすぐに金型クランクケースになった(1969年9月生産から)。そしてヨシムラ自家用が届く以前に、ホンダ埼玉工場の社内レーシングチームの明和レーシングに所属していた太田耕治氏が、秋川工場に乗って現れ、すぐにPOPにカム製作などチューニングを依頼した。太田氏はこれ以前にも自身のCB125レーサーのエンジンをヨシムラに依頼していて、そのパフォーマンスに驚き、そしてPOPの人柄に強く魅かれていた。もちろんPOPは快諾し、CBナナハンのチューニングが始まった。

ピカピカに鏡面研磨されたCB750FOURのクランクとコンロッド。強度アップやフリクションロスの低減を狙ったもの。CB72などでも行っていたヨシムラの定番チューニングメニュー。手作業のバフだけなので非常に手間がかかる。

CBナナハンは国内販売直後の8月17日の鈴鹿10時間耐久レースで1-2位(社員チームブルーヘルメットMSCの隅谷守男/菱木哲哉氏組が1位、尾熊洋一/佐藤実氏が2位)を収め、9月13、14日の第33回ボルドール24時間でも優勝(当時大学生だった後のGPライダー、ミッシェル・ルージェリーとダニエル・ウルディッチ)。そして1970年デイトナ200マイルでホンダファクトリーマシンをディック・マンが駆り、歴史的な優勝を遂げた。

この1970年にAMAは前年のダートトラックやスピードウェイと同じくロードレースでも、エンジン形式に関わらず排気量上限を750ccまでとルールを変更していた。それまではハーレー保護策でOHV/SOHC/DOHCは500ccまで、SV(ハーレーKR750だ)は750ccまでとしていたのだ。このルール変更で世界注目のデイトナ200マイルは一気にホンダ4気筒、BSA/トライアンフ3気筒、カワサキ2ストローク3気筒とビッグマルチの戦いになっていった。

実はCBナナハンのデイトナ優勝は4台のファクトリーマシンの中で完走したのがマンだけというきわどいものだったが、新時代の夢の4スト4気筒の優勝は世界中に大反響を呼んだ。ヨシムラのお客であった基地の米兵たちも帰国後に本国からヨシムラのCBナナハンパーツを注文してきた。

秋川のヨシムラでは、届いたK0をテスト車両にしてチューニングを加え、パーツを開発していった。ハイカムはもちろん、750cc規定のAMAでは使えないが、CB350(2気筒)をベースにボアアップピストンも用意(φ64㎜:810ccキット。当時は812ccキットとされたこともあった。後にφ64.5㎜:823ccキットも加わる)。CRキャブやクロスミッションはRSC製を使った。

そして1970年も終わろうとする頃、アメリカ・ペンシルベニアにあるクラウスホンダからCBナナハンのレース用エンジンチューニングの依頼がきた。1971年デイトナ200参戦用だという。クラウスホンダのボス、ロン・クラウスは1971年デイトナ200マイルにホンダファクトリーが参戦しないことを知っていて、それではせっかくの人気が下降してしまうことを危惧して、自ら参戦を決めたのだった。

レースで活躍しなければ、売れ行きに響く。特にデイトナ200マイルの結果は当時重要だったのだ。クラウスホンダはペンシルべニアで最も古い大手ディーラーで、日本のヨシムラとは帰国した米兵が仲介した。ここからハイカム、強化バルブスプリング、軽量クランク、ポート研磨、シリンダーヘッド1㎜面研(圧縮比アップ)、CRキャブ、クロスミッションなどのチューニングを行い、STDの67馬力から97馬力までパワーアップした。

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この2台のクラウスホンダCB750FOURに装着されているテールがメガホンで長い集合管の初期モデルを送ってあった。メガホンでもショート管(テールはストレート形状)でも性能差がなかったので、軽いショート管を採用しデビューさせた。また、オンタリオ250マイルの集合管デビュー時は、テールカウルはロングタイプになった。

1971年デイトナ200マイルにはクラウスの言葉通り前年優勝のホンダファクトリーは姿を見せず、英雄マンはBSAファクトリーに入り、同じ3気筒ロケット3にはマイク・ヘイルウッドも乗っていた。決勝序盤、衝撃が走った。ルーキー、ゲーリー・フィッシャーが駆るヨシムラチューンのクラウスホンダCB750FOURが、並み居るGPライダーやAMAの英雄を従えてレースをリードしたのだ。

デイトナ名物の31度バンクでもバックストレートでも、圧倒的なスピードを見せる。結局10ラップでカムチューン切れでリタイアしたが、ヨシムラマジックを知らしめるには充分だった。この快走に気を良くしたクラウスホンダは、残るAMAシリーズにもヨシムラエンジンで参戦したいという意向を打診してきた。もちろんPOPも手応えを感じていたし、さらなるマジックも用意していた。

「高速道路のバス停で止まっていたら、白バイが来て、コレは何だと始まった。当時はナナハン自体珍しいし、CRが付いている。白バイ連中は当然詳しいから、ごまかしてもダメだと思って、実はこれコレこういう理由でちょっとエンジンテストしてるんで……。結局、おとがめナシだったよ」(不二雄)

もちろん当時は違法改造車になる。

「でも、白バイの連中はバイク好きだったから……。ウチにちょくちょく見にきてたよ」(不二雄)

 そして初夏。不二雄の愛車K0に、黒い怪しいパイプが装着された。

「まず、音。聞いたこともないような……。パワーが出てる! 吹け上がりが速い! これはイケる。エスハチ(ホンダS800)でやっていたタコ足=集合管と同じで軽くて、これはハンドリングも含めて車両全体で大きな武器になる。CBナナハンとエスハチは気筒当たりの容積もほぼ同じだったから、オヤジはパイプ径などはだいたい察しが付いていたんだと思う」(不二雄)

バイク初の4into 1パイプ。集合管だった。

「その頃は肉厚、管径など手ごろなパイプがなくて、仕方なく板から手巻きして、できたパイプに砂を詰めて手曲げしていた。集合位置、管径、管長など試行錯誤した」(不二雄)

軽量化と同時に低中回転域のトルクアップや高回転域での伸び・パワーアップも確認できた。問題はスペース。最低地上高やバンク角、フロントタイヤと干渉などバイクならではの問題もあった。不二雄は愛車K0で実走テストを繰り返した。

世界初のバイク用4-1集合管は1971年10月、カリフォルニアのオンタリオ・モータースピードウェイで最終仕様がデビューした。ヨシムラチューンのエンジンを搭載したクラウスホンダCB750FOURをライディングするのはルーキー、G・フィッシャー。クラウスホンダは独自のアルミ叩き出しロングテールカウルと黄色いカラーリングも特徴で、非常に美しい。

POPは集合管の最終仕様のデビューを10月17日、AMAロードレース最終戦オンタリオ250マイルに定めた。オンタリオはロサンジェルス郊外にあり、雨が少ない西海岸の気候もあってファンが多く集まるレースだった。その前にクラウスホンダのマシンのメンテナンスのために不二雄は、集合管の初期テストを終えると6月に渡米。また、レース参戦とアメリカの情報を収集するために森脇護が8月に渡米した。

不二雄が準備したマシンではクラウスホンダはAMAロードレースシリーズの第5戦ポコノ(クラウスホンダの地元ペンシルベニア)と第6戦タラデガ(アラバマ)に参戦した。この2戦は思うような結果は残せなかったが、実は初期型集合管をひそかに装着しテストしていた(大きな話題にはならなかった)。

一方、森脇はロサンジェルスのヨシムラパーツを販売するラリー・シャイブリーの所へ向かった後、9月にタラデガで不二雄と合流した。森脇はAMAロードレースを走るのだ。森脇はCB350(2気筒)でジュニアクラスに参戦したが、このマシンが壊れ、急きょクラウスホンダのスペアマシンCB750FOURで出走し、見事7位に入った(3位は新人ケニー・ロバーツだった)。2人はいったんペンシルべニアに戻り、マシンを準備してオンタリオへ向かった。そして9月29日、日本から秘密兵器“最終仕様の集合管”を携えてPOPが合流した。この最終戦オンタリオは英雄マンとジーン・ロメロのAMAグランドナショナルチャンピオンに注目が集まっていた。クラウスホンダCBナナハンを駆るのはフィッシャーと元ハーレーファクトリーライダーのロジャー・リーマンの2人だった。

「パドックで音出し(暖機)するだけで黒山の人だかりができたよ」(不二雄)

それはそうだ。誰も集合管の音を聞いたことがないのだ。POPが日本で開発を重ね完成した最終仕様の集合管だ。その短い黒い不気味なパイプは、低回転域では図太く唸り、エンジン回転が上がるにつれて澄んだ、抜けるような高音に変わっていく。実走ではさらに驚きがあった。本当に速い。フィッシャーは予選で最速タイムを叩き出した。

残念ながら、決勝では1台がオーバーランしたときに砂を吸い込んでエンジンブローし、もう1台はまたしてもカムチェーンが切れ、2台ともリタイアに終わった。また、ピットに置いてあったスペアエンジンが盗難にあってしまった(不調で降ろしたエンジンで、集合管未装着)。けれども、ファンやレース関係者からの反響は物凄かった。まさに画期的な発明。バイク界にとって歴史的な出来事だった。レーシングマシンでも市販車でも並列4気筒は現在まで、集合管装着が当たり前になっている。でも、POPは特許を申請しなかったのだ。そんなことは、まるで頭になかったのか……。

1972年3月、ハーレーファクトリーのエースだったベテラン、R・リーマン(クラウスホンダCB750FOUR)がデイトナの1コーナーを抜け、インフィールに向かう。集合管は1971年オンタリオ時から改良に次ぐ改良を重ねた進化版で、テール部はオンタリオ仕様がリアアクスル付近まであったのに対して、このデイトナ仕様ではステップ下までと短い(ほぼショート管の完成形だ)。ハイバンクやストレートでは圧倒的なパワーと快音でファンやレース関係者を驚かせた。

翌1972年デイトナ200マイルにもクラウスホンダは参戦を決めた。不二雄はマシン造りを行うため、そのままアメリカに残った。POPは帰国後、集合管の改良やエンジンチューニングに没頭した。もっとパワーが出せる! そう確信していた。

パイプを作り、長さを調節し、また切って……。理論が確立していたわけではない。けれども、POPは頭の中で排気が生き物のように、エンジンのパワーを引き出していることを感じていた。実際に多くのメーカー関係者は、理論的裏付けがないとして否定的な見方をしていた。1気筒毎にスムーズに排気させる独立メガホンマフラーが主流だったからだ。でも、正確には排気脈動の効果などの解析がなされていなかっただけなのだが。

クラウスホンダのマシンはフィッシャーと、元ハーレーファクトリーでデイトナ200マイルを3度制しているリーマンの2人が乗ることになった。決勝は3月12日。デイトナでPOPは不思議な光景を目にした。集合管の模造品がたくさんあったのだ。多くは小さなチューニングショップが作ってきた物だった。これにはPOPもあきれた。が、同時にメーカー関係者が否定的だったのと反対に、アメリカ人の反応がおもしろかった。もちろん理論はなく、あの音が彼らを魅了したのだろう。

1972年デイトナで。クラウスホンダのメカニックたちとCB750FOURレーサー。タイヤはこの年デビューしたダンロップKR83。ハイスピードのデイトナでカワサキやスズキの2スト750ccのハイパワー(約100馬力)に対応するために開発された。もちろんヨシムラエンジンも同等以上のパワーだからクラウスホンダはダンロップを選択(前年はグッドイヤー)。リアショックはコニ製。

予選はフィッシャーが5番手、リーマンが8番手。決勝はスタート直後からクラウスホンダ勢が快調。フィッシャーは前年に続きトップを走る。スズキ(アート・ボーマン)やカワサキ(イボン・デュハメルやゲーリー・ニクソン)の2スト750cc、ヤマハ(350cc)のルーキー、ケニー・ロバーツらを従えてだ。

2スト勢のかん高い音を圧倒する4スト4気筒集合管の咆哮が、31度バンクに響き渡る。27ラップ、グランドスタンド前18度バンクをトップで通過したのはフィッシャーだったが、その直後オイルタンクにクラックが入りリタイアしてしまった。リーマンも同じトラブルでレースを終える……。けれども、POPとヨシムラの名は世界に轟いた。画期的な集合管と魔法のエンジンチューニングが4スト4気筒の新時代を告げていた。

1974年版ヨシムラパーツカタログの表紙は1972年デイトナを走る2台のクラウスホンダCB750FOUR。手前が#5、R・リーマン、奥が#30、G・フィッシャー。

ヨシムラジャパン

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1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。