S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

ヨシムラチューンS800エンジンを搭載した2シーターレーシングマシン。スポンサーは紳士服の三峰。この頃はBSGヨシムラ、コニリオ/DAY & NITE SP、マクランサ、キノシタSPLなどS800を積んだコンストラクターのマシンが増えレースは活気付いた。1969年日本GPではヨシムラエンジン搭載の黒須隆一(DAY & NITE SP)がGP-1クラス優勝。総合優勝はニッサンR382(黒沢元治/砂子義一)だった。

【ヨシムラヒストリー06】S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス、autosport
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2019年5月29日

1966~1970 YOSHIMURA TUNE FOR CAR RACING

福岡・雑餉隈から東京・福生に移転した頃から、POPの元にはCB72/77などのバイクの他に4輪のチューニング依頼が増えていった。その4輪とはホンダのスポーツカーS600(エスロク)/S800(エスハチ)だった。エンジンは水冷直列4気筒DOHC2バルブ。現代で言えば軽自動車(当時軽自動車は360㏄まで)と小型車に、4輪F1やGPマシンのような超高性能エンジンを搭載したのだ。

ホンダはGPテクノロジーを投入したCR110(単気筒49㏄)、CR72/77(2気筒247㏄/305㏄)などのDOHCの市販レーサーを発売。4気筒DOHC4バルブも1959年型ファクトリーマシンRC160に搭載し、多気筒DOHCで高回転高出力化を図り2ストローク勢に4ストロークで対抗していた。

4輪F1(1.5L時代)では1964年に横置き水冷V12DOHC4バルブ1495ccをデビューさせていた(1965年初優勝)。市販4輪では1963年に何と軽トラック T360に水冷直列4気筒DOHC2バルブ354㏄を搭載。その後、スポーツカーS500(531㏄。1964年発売)、S600(606㏄。1964年発売)、S800(791㏄。1966年発売)と続けざまに高性能エンジン車を発売していった。

POPにとってこの4輪エンジンチューニングは難しくはなかった。2気筒(BSAやCB72/77など)が4気筒になって、気筒数やカムが多い(SOHCは1本だが、DOHCは2本)から手間はかかるが、構造は似ていたからだ。さらにCR72/77やCR110で経験したDOHCは魅力的だった。

POPが4輪用エンジンをチューニングし始めたのは、福生に移ってからで、そのS600でPOP門下生の永松邦臣が鈴鹿を好走。POPのハンドメイドのハイカムの威力を実感した。永松は早くから4輪転向し、1964年第2回日本GP(4輪)にS600でデビューしていた。この頃から日本のトップドライバーの多くが同じようにバイク出身でもあった。(元ホンダGPライダーの高橋国光、雁の巣をトーハツで走った生沢徹などもそうだし、長谷見昌弘、星野一義、黒沢元治はモトクロス出身だ)

1965年、永松と同じくPOP門下生だった高武富久美は、ホンダ系チームのテクニカルスポーツ(鈴鹿。現T.S.R.)で和田将宏とヨシムラチューンのCB72を走らせる一方で、永松のように4輪レースにも参戦を開始。1965年鈴鹿300㎞ではS600でGT-2クラス優勝を果たしていた。

福生から秋川の自社工場に移転後、4輪チューニングの仕事は多くなり、それはヨシムラの経営を支えるまでになった。1966年はS600に続きS800が発売され、東京近郊に船橋サーキット(1965年~)や富士スピードウェイ(1966年~)が出来たことも4輪レースを活気付けた。

また、4輪日本GPも1963年から始まり、トヨタ、ニッサン(第2回日本GP後にプリンスと合併)などのメーカーが、レースの反響が想像以上に大きいことからファクトリー活動に力を入れていった。そんな4輪レースの底辺を支えていたのが、POPたちが手掛けたプライベータ―のS600/800などだったのだ。

【ヨシムラヒストリー06】TUNE FOR CAR RACNG、S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

1965年11月21日、完成したばかりの船橋サーキット(1.8㎞)で開催されて第7回ナショナルストックカーJrコンチナンタルでヨシムラS600をドライブした鮒子田寛が優勝。これはヨシムラの4輪公式レース初優勝だった。

【ヨシムラヒストリー06】TUNE FOR CAR RACNG、S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

左から風戸裕、POP、1人置いて森脇護。後の日本4輪レース界のスターとなる逸材たちがPOPを慕って集まっていた。神様のチューンは4輪でも有名になった。

【ヨシムラヒストリー06】TUNE FOR CAR RACNG、S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

1970年5月3日JAFグランプリFJクラスで優勝した故 堀雄登吉(オトキチSPL)。エンジンはPOPがフルチューンしたホンダN360、シャーシは堀が製作。

秋川には後に海外やメーカーチームで活躍する若き才能が自然と集まって来ていた。鮒子田寛(1965年船橋でヨシムラS600で初優勝。その後トヨタファクトリー入り。富士GCなどで活躍)、寺田陽次郎(1965年からS600で活動。マツダファクトリー入り後、ルマン24時間などで活躍)、見崎清志(1965年にS600でデビュー。その後トヨタファクトリー入り)、風戸裕(1967年にS800でデビュー。ポルシェ908/910で活躍。1970年代は北米カンナム、ヨーロッパF2でも活躍。1974年富士GCで他界)、青木紀子(日本女性レーシングドライバーの草分け的存在。S600などで活躍)、堀雄登吉(POPチューンのCR110で1966年MCFAJ50㏄チャンピオンを獲得。4輪では軽自動車エンジンを搭載したフォーミュラFJ/FLで自作マシンのオトキチSPL・アローで活躍。2017年他界)、三井晃(ホンダN360/Z360やロードレースで活躍。後年にパーツ販売・企画を行うスタッフハウスを設立。故人)などがヨシムラチューンと自らの才能を実戦で証明した。

ヨシムラ社員では1966年に四国から布団を積んでS600 でやってきた松浦賢と、神戸から来た森脇護は異色だった。松浦は約2年ヨシムラで修業し、その間自身で組んだS600でRSCチューンのマシンを相手に1967年第4回日本GP-1クラス優勝を果たすなど、レーシングドライバーとしても非凡さを見せた。

その後地元愛媛に戻り、POPから学んだことを生かし、後に世界屈指のエンジンチューニングメーカー“ケン・マツウラ・レーシング”を設立した。最近でも独自の鍛造ピストン、チタンコンロッド、チタン中空バルブの加工など、2・4輪ファクトリーが依頼するほど高度な技術が同社の特徴だ。

森脇は、その後POPの長女・南海子と結婚し、1973年鈴鹿に“モリワキエンジニアリング”を設立し独立する。森脇は1966年秋川に、最初父親と訪れ、すぐにCB72で神戸から17時間自走して、その愛車を預けに来た。そして何度か通う内に、何となくヨシムラに居ついてしまった。この森脇CB72チューンをPOPの手伝いとしてイジったのが松浦だった。エンジンはもちろん、フレーム補強などを施したコンプリートのフルチューンだった。完成したCB72は「それまで130㎞/hぐらいしか出なかったのが200㎞/h以上になった!!」とPOPの魔法に大感激した。

POPは森脇と、高校を卒業して家族と合流した長男・不二雄を西多摩スピードクラブに入れた。同クラブはヨシムラ直属のバイクレースチームで、お客さんの中にも有望なライダーが多かった。不二雄(1948年生まれ)より4歳年上の森脇(1944年生まれ)は不思議な男だった。バードウォッチングを趣味に、穏やかで、まるでレースを志すようには見えない。レースでもするするとスムーズに走り、いつの間にか優勝してしまう。

転倒・骨折からバイクレースを禁止され、4輪レースに転向させられた不二雄。バイクレースほど4輪レースは興味をそそるものではなかったが……。

一方不二雄はバイクに乗ると、とにかく血の気が多く、最速か転倒かという走りだった。そして不二雄は富士のレースでポールポジションタイムをマークした直後に転倒し腕を骨折。これを機にPOPはバイクレース禁止を言い渡し、4輪レースへ転向させられてしまった。そんな静と動の2人が組んで、1970年富士1000㎞でGT-1クラス優勝を果たした(S800)。長女・南海子は、弟・不二雄の危なっかしいバイクレースばかり見ていたから、この2人が勝ったことはことさらうれしかった。

南海子は、福生・秋川に移転後、POPの片腕としてパーツ調達から経営まで奔走していて、父の頑張る姿や、こういう身内のうれしい出来事が厳しい現実を少し和らげてくれた。

【ヨシムラヒストリー06】TUNE FOR CAR RACNG、S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

1970年7月26日富士1000㎞スタート(4.3㎞コース)。森脇護(駆け寄るスタートドライバー)と不二雄が組んでGT-1クラス優勝(#45のヨシムラS800)。不二雄はあまり4輪レースに興味を持たなかったが、森脇は活躍。森脇はバイクでも1970年シンガポールGPで2位となるなど二刀流だった。

4輪チューンはPOPに新たなアイディアをもたらしてくれた。ひとつは直打式DOHCのS800に使われているバルブスプリングリテーナー+シムなどをSOHCのCB72/77に流用することだった。STDはバルブステムとロッカーアームを押すが、ヨシムラのハイカムだとかなりバルブステム上側に側圧がかかる。

そこでバルブステム上にS800用リテーナー(鉄製でも軽量)、タペット調整用小径軽量シム、コッターを付けると、問題となる側圧がシム部分で逃げて相当低減できるのだ。もちろんS800用バルブステムと同径のバルブ、バルブガイド、対応するカムなどを製作した。その成果はフリクションが増大する高回転域の伸びやパワーに顕著に出て、富士のラップタイムは2分30秒から一気に約5秒も縮めることができた。超高速コースの富士で、明らかにパワーアップした証拠だった。

もうひとつは、後の大発明の原点となった4輪用エキゾーストパイプだった。粕谷勇(1969年富士300キロゴールデンフォーミュラクラスで優勝するなどフォーミュラFLで活躍)が持ち込んだブラバムのシャーシ(BT-15or16のF2/3用)にS800エンジンを搭載しようとしたときだった。各気筒から直に4本出したのではカッコが悪いし、重くなるからと4本を1本にまとめてみた。4into1の集合管だ(4輪的に言うならタコ足だ)。主な狙いは軽量化だったが、何とパワーも上がり、中速トルクが豊かになり、速い!(何とトヨタ2000GTよりもだ)。

秋川には最初、2輪用シャーシダイナモを導入していたが古くてあまり精度も良くなくて、あまり活用されていなかった。そのダイナモ室は森脇が得意の大工仕事で建てたものだった(後にエンジンダイナモも購入し、森脇が別棟を増築した)。それからは、菅長、菅径、集合位置などを変えた様々なタイプを何10本も試作。直4のS800用では効果抜群だった。やがて、ホンダの並列4気筒CB750FOURが発売されてからは、2輪でも集合管がパワーUPに繋がる事が分かった。

【ヨシムラヒストリー06】TUNE FOR CAR RACNG、S600/800チューンで大忙し。松浦賢、森脇護が弟子入り

ホンダの軽自動車N360(1967年発売)やZ(1970年発売)はPOPのチューン。写真はホンダZをドライブする故 三井晃。1972年オートスポーツトロフィ(富士)で優勝するなどミニツーリングカークラスでヨシムラZは大活躍した。

ホンダ1300(1969年発売)はシリンダー内壁と外壁の間に空気通路を設けてあり、ここにファンで空気を送る独特な空冷(DDAC)だった。POPはファンによるパワーロスを嫌って、空気通路まで外側からシリンダー外壁を削り落として通常の空冷とした。1971年富士1000㎞では、これを通常(DDAC)エンジンに戻し、RSC製車体に搭載した1300クーペで、1971年富士1000㎞で高武富久美/菅原義正(1983~2019年にバイク、4輪、トラック:日野レンジャーでダカールラリー参戦。史上最多36回連続・最年長参戦はギネスブック入り!)がGT-1クラス優勝。ホンダとの関係は少し改善していた。前列右から2人目が菅原、その左が高武。後列右から3人目がPOP。後列左奥の帽子を被っているのが松浦賢(ヨシムラ卒業後、地元愛媛でチューニングを続け自チームで参戦)。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。