1981年開幕戦、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイの真っ平なインフィールドにあるセカンドホースシューに進入しようとするトップグループ。トップが#34 W・クーリー(GS1000S)。追うのは#19 F・スペンサー(CB900F)、#316 G・クロスビー(GS1000S)、背後に#21 E・ローソン(KZ1000J)、#88 R・ピエトリ(CB900F)、#73 M・スペンサー(CB900F)、#56 D・エムデ(KZ1000J)、#26 J・アダモ(ドゥカティ900SS)。

【ヨシムラヒストリー17】W・クーリー、デイトナ初優勝の陰にあった、ある技術革新

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、Cycle World、石橋知也
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2021年11月29日

1980~1981 Some big changes.

「お前たちを訴えてやる! 覚えておけ!」

不二雄は、USカワサキのメカニックに怒鳴っていた。1980年10月5日、AMAスーパーバイク最終戦デイトナ。計10戦の集大成が、こんな不条理な裁定だなんて、絶対に許されない……。

まず、E・ローソンのUSカワサキファクトリーKZ1000MKⅡが決勝スタート直前に、エンジンに不調をきたし“3気筒”になってしまった。ここでUSカワサキはE・ローソンのマシンだけではなく、チームメイトのD・アルダナのマシンもガレージに引っ込めた。そしてガレージから出てきたのは、E・ローソンのマシンだけで、なぜかD・アルダナのマシンが出てこなかった。そのE・ローソンのマシンは、フロントフォーク、ブレーキ、ハンドルが違っていて、いつもテールカウルにあった“Go Eddie”の文字も無くなっていた。そう、E・ローソンのマシンは、D・アルダナのマシンへ交換されていたのだ(もちろんゼッケンは#21に付け替えられていたが)。当然レギュレーション違反だ。

グリッド上でこの異変に気付いたW・クーリーは、AMAのオフィシャルに抗議した。スーパーバイクは市販車ベースなので、フレームに車台ナンバーが打刻してある。しかし、AMAは、車検時にそのフレームナンバーを控えていなかったから、本物の#21と偽物の#21の区別が付かず、W・クーリーの抗議は却下されてしまったのだ。

決勝はそのままスタート。W・クーリー(ヨシムラGS1000S)、E・ローソン(USカワサキKZ1000 MKⅡ)、F・スペンサー(アメリカンホンダCB750F)、M・ボールドウィン(アメリカンホンダCB750F)、M・スペンサー(ヨシムラGS1000S)がすっ飛んで行く。

6ラップ目、E・ローソンが、自らのエンジンが出したオイルでリアタイヤが滑ってクラッシュ。これでE・ローソンは優勝争いからも、チャンピオンシップ争いからも脱落した。レースはW・クーリーとF・スペンサーの激しい争いとなり、W・クーリーが制した。これで文句なくチャンピオンも6ポイント差で、W・クーリーに決まった。

……かに思われたが、何とUSカワサキがW・クーリーのGS1000Sにフレーム改造違反があると抗議し、AMAはこれを受理してしまったのだ。そうなると優勝F・スペンサー、2位M・スペンサー、3位M・ボールドウィンとなり、チャンピオンシップは1位E・ローソン121ポイント、2位F・スペンサー115ポイント、3位W・クーリーとなってしまった。これに怒った不二雄は猛抗議し、異議を唱えたが受理されず、暫定結果としてW・クーリーは失格と扱われた。

GS1000Sは1025㏄まで許可されるAMA規定に合わせて、φ70mm→φ70.9mmにボアアップ(ストロークは64.8mmのまま)して1023㏄に。キャブはケーヒンCRφ31mm。マフラーは通常の4 into1で、カムはPCによる新設計。フロントフォークはアルミ削り出しボトムケースのANDF(アンチノーズダイブフォーク)機構を持つファクトリーマシン専用φ40mmKYB製。リアショックはリザーバータンク付きKYB製で、これもファクトリーマシン専用。それをレイダウンマウント。スイングアームはアルミ角断面で、下側にスタビライザーを持つ。ホイールは前後18インチのダイマグ製(マグネシウム鋳造)。カウルはフレームマウント。これは1981年型G・クロスビー車。

W・クーリーのGS1000Sは、最終戦デイトナの直前に地元カリフォルニアのウィロースプリングスでテストした際に転倒し、シートレールにこの補修(ガセット溶接など)を行っていた。USカワサキは、この補修を“フレーム改造違反”としたのだ。本当にフレーム補強の目的ならば仕方がないが、補修を行ったのはメインフレームとは関係ないシートレール部分で、あくまで修理目的。そもそもフレーム改造を問うのであれば、レース前の車検時だろう。E・ローソンが、転倒ノーポイントに終わった後ではないはずだ。

長い時間が費やされ、12月になっていた。AMAの裁定が下った。W・クーリーの優勝が認められ、チャンピオンシップのランキング1位W・クーリー128ポイント、2位E・ローソン121ポイント、3位F・スペンサー111ポイントとなり、W・クーリーは見事2年連続AMAスーパーバイクチャンピオンに輝いたのだ。

裁定の内容はこうだ。E・ローソンは決勝前に違法な車両交換をして失格していたので、失格したE・ローソンには抗議する資格がない。つまりUSカワサキ(E・ローソン)がヨシムラ(W・クーリー)に出したフレーム改造違反に関する抗議自体が無効というものだった。そして証拠として提出されたのは、サイクルニュース紙(アメリカのバイク専門週刊新聞)が撮った写真で、そこには決勝前と決勝ではE・ローソンのマシンが明らかに違っていたことが写っていたのだ。

不二雄が「今までで一番悔しかった」という思いは、こうして正式に解決されたのだ。

1980年は、もうふたつ重要な出来事があった。それらは、ヨシムラにとってエンジニアリングの大きな転機になっていた。ひとつ目は、POPが“サイクロン”マフラーを発明したことだった。4 into 1集合マフラーでは、従来は#1と#4を上側に、#2と#3を下側に集合させていたが、“サイクロン”は、並列4気筒を爆発順番通りに円を描くように(左回りで)#1→#2→#4→#3と集合させるのだ。この方式によって集合部後の排気は、渦を巻いて流れ、排気流速が速まる(スワール効果)。結果、低中回転域からトルクが豊かになり、高回転域での伸びが良くなったのだ。もちろん自社レース用ばかりではなく、市販品にも反映させていったが、サイクロンマフラーは、あくまでPOPのいた日本側での開発・販売となった。

そして1980年10月、工場を現在ヨシムラジャパンのある神奈川県愛甲郡愛川町に移し、社名も「ヨシムラ・パーツショップ加藤」から「ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパン」へ変更した。敷地面積600坪と、これまでと比べ広大で、エンジンダイナモも高性能なものを新たに導入した。

グランドスタンド前の18度バンクから、まったくフラットなインフィールドへ。ここがデイトナ・インターナショナル・スピードウェイのロードコースのターン1。W・クーリーがGS1000Sを深々とバンクさせて、この左ターンを行く。W・クーリーは、ヨシムラ初の契約ライダー(1976年~)で、Z1、GS1000/1000Sと乗り継いできた。3月に行なわれる“デイトナ”は、世界最大級のバイクウィークであり、アメリカ人ライダーにとって、ここで勝つことは、ただの1勝ではなく、歴史にその名を刻む勲章なのだ。

ふたつ目は、不二雄がコンピュータを導入したことだ。コンピュータと言ってもハンドヘルドタイプ(片手で持てるハンディタイプのパソコン)だったが、計算能力は桁違いで、ポータブルプリンターが接続でき、書いたプログラムは磁気テープに保存することができた。購入したのは知り合いの加工業者に紹介されたロサンジェルスのコンピュータショップ。本当はパーツ製作のためのプログラムを依頼しようとしたが、PCがまだ今のように普及していなかったから、上手くいかず、PC本体も高額だったため、この話は諦めるしかなく、不二雄はPCショップを出た……が、「待てよ、これはチャレンジだ」。不二雄はPCショップに戻り、そのPCを買った。

PCは、高性能だった。聞けば自衛隊のパイロットが、同じモノを使っているという(戦時中、飛行機に搭乗中はPOPも計算尺を使って必要な計算を行なっていた!)。ただし、このPCは“素”で何から何までイチから行わなければならなかった。英語のPC専門用語やプログラミング言語(basic)と格闘しながら、カムシャフト1度毎にバルブリフト量を計算し、つまりはこのPCを使って、カムシャフト設計用のプログラムを、不二雄は自作しようとしていたのだ。これにより、バリエーションに富んだカム設計が単時間で出来る様になり、機械加工で精度にバラツキが無い‟雛カム”が出来るようになった。そして、その‟雛カム”から、カム研磨機(倣い)のマスターカムが出来、カムの量産化が図られた。

POPが経験と勘と発想で、大胆なチューニングを行なっていたのに対して、不二雄の特徴は? 理論とPCが武器になる……と信じて、PCに取り組んでいた。何も知らないところから、見事にプログラムを設計し、1981年デイトナ用GS1000のカムを作り上げた。PCによるカム設計の第1号だった。それはシリンダーヘッドチューニングの要となるカムの設計が、新時代に入ったことを告げていた。

そのデイトナで、いつもハードラックが付きまとう男がいた。ヨシムラのエース、W・クーリーだ。1976年に初出場(4位)、1977年3位、1978年リタイア(オイルクーラー破損)、1979年2位(ブレーキトラブルでトップから後退)、1980年リタイア(クランクシャフト破損)。この間、ヨシムラはデイトナスーパーバイク3連覇(1978年S・マクラフリン、1979年R・ピアース、1980年G・クロスビー)。なので、この年もスポット参戦するG・クロスビーは、どうしてもW・クーリーに勝たせたかった。ヨシムラが勝つなら、今度こそW・クーリーが相応しい。G・クロスビーとは、そういう男なのだ。

デイトナ・インターナショナル・スピードウェイは、トライオーバル(三角形オーバル)といって東西に巨大な31度バンクがあり、オムスビ状に尖ったグランドスタンド前の18度バンクがある。フィニッシュラインはその18度バンクにある。中盤まで#34 W・クーリー(GS1000S)、#316 G・クロスビー(GS1000S)、#19 F・スペンサー(CB900F)がこの通りの差。この差なら誰だってラストラップにトップで突入したくない……。

決勝はW・クーリー、G・クロスビー(以上ヨシムラスズキGS1000S)、F・スペンサー(アメリカンホンダCB900F)の大接戦となった。開幕戦のデイトナスーパーバイクだけ特別に50マイルではなく、途中ガスチャージ1回を含む100マイル26ラップで行われる。その12ラップ、ガスチャージでF・スペンサーは火災事故を起こし、何とか再走はなったものの、ヨシムラ勢とは大差が付いてしまった。対してW・クーリーとG・クロスビーは同時にピットインし、問題なくガスチャージを済ませた。これで2人のマッチレースだ。

ラストラップ、W・クーリーはまずいポジションにいることに気付いていた。トップなのだ。背後にはG・クロスビー。このままではターン4(東31度バンク)から一度ボトムに下って、再び18度バンクに上がってフィニッシュラインという間に、ドラフト(ヨーロッパ流に言うならスリップストリーム)を使われて逆転されてしまう。唯一の方法は、ドラフトを使えない距離まで引き離すことだ……が、G・クロスビーは、東31度バンクへ駆け上がる直前のシケイン立ち上がりでミス。大きくリアをスライドさせてしまった。必死で挽回しようとするが0.7秒届かなかった。W・クーリー、悲願のデイトナ初優勝。そしてヨシムラはデイトナスーパーバイク4連覇達成だ。2位G・クロスビー、3位F・スペンサー。そう、G・クロスビーの思惑通りの結果になった。

W・クーリーは、正確にはデイトナ2勝目。1勝目は例の問題が起きた1980年最終戦の50マイルレース。2勝目はこの1981年開幕戦の100マイルレース。“デイトナ”と言えば3月の開幕戦のことで、デイトナ初制覇で間違いはないと思う。ベルへルメットがスポンサーになっている“ベル・スーパーバイク100”のウィナーは、確かにW・クーリーなのだ。

アメリカ(ヨシムラR &Dオブ・アメリカ)では不二雄のPC設計カム第1号装備のGS1000SでW・クーリーのデイトナ初制覇、日本(ヨシムラ・パーツショップ加藤→ヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパン)ではPOPがサイクロンマフラーを発明。こうして時代の変革は、表面に見える現実よりも革新的な内容を含んで始まっていた。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。