1977-78年のカタログ表紙は1977年オンタリオ6時間耐久(カリフォルニア州)を走るW・クーリー(T・マーフィーと組んで優勝)。このZ1はAMAスーパーバイク用ではなく、改造自由なオープンクラスなので4-1集合管を装着。W・クーリーはシーズン最終戦リバーサイド(カリフォルニア州)でZ1を駆り、AMAスーパーバイク自身初優勝を飾った。

【ヨシムラヒストリー10】パワー最高‼️ 暴れる4気筒マシンをねじ伏せ、度胸試し!

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2020年3月23日

1973~1977 In early days of AMA Superbike Production

アメリカ人共同経営者による会社乗っ取りという忌まわしい事件があった頃、レース界にとってもヨシムラにとっても大きなムーブメントがアメリカで起きていた。1973年7月28日、AMAがナショナルチャンピオンシップ、ロードレースのラグナセカ(カリフォルニア州)ラウンドで初めてプロダクションレースを併催したのだ。

メインレースの決勝を翌日に控えたレースウィークの土曜日に、オープンプロダクションと350㏄クラスのライトウェイトプロダクションの2クラスが行われた。市販状態の外観を維持し、カワサキZ1なら4本マフラーのままで、フロントブレーキをスタンダードのシングルディスクからダブルにすることも禁止で、メーター類もそのままだった。一方エンジンは中身を改造できたが、キャブはスタンダード。

オープンプロダクションで優勝したのはZ1で、ライダーはUSカワサキのイヴォン・デュハメルだった。2位もZ1で、ライダーのスティーブ・マクラフリンはこのプロダクションレース開催の中心人物だった。彼はその後のAMAスーパーバイクの構築と、1988年からのスーパーバイク世界選手権創設にも関わっていくことになる。他にはBMW R75が3位。ホンダCB750FOUR、カワサキH2(2ストローク3気筒750cc)、トライアンフ、ノートン、ラベルダなどその頃の750ccクラスがほとんど参戦した。ライトウェイトはヤマハRD350が中心だった。

Z1/KZ1000用エンジンのチューニングパーツ。作業時間まで記載されている。カムはロードスペシャルが現代のST-1、ボンネビルスペシャルがST-2だ。

987ccキットはφ69㎜ピストン仕様。パワーカーブで示される仕様はφ69.4㎜ピストン、AMAスーパーバイク用、998cc。ケーヒンφ31㎜CRキャブ、4-1集合管で130㎰以上を発生した。

ケーヒンCR(φ31mm)、ミクニスムーズボア(φ29mm)クロスミッション(これは非常に有用だった)などを販売。

4-1集合管は一般市販タイプが機械曲げで、レース用には手曲げがあった。たった6ページのカタログだが、Z1/KZ1000ライダーにとってはバイブルのような存在だった。

この1973年ラグナセカ前後に、アメリカ各地でプロダクションレースが盛んに開催されていた。ルールはそれぞれだったが、本格的な改造が行われていたわけでなく、1970年代に入ってホンダCB750FOURやカワサキZ1など日本製4気筒を中心に市販車の性能が上がり、それを買ったオーナーがウデ試ししたいというシンプルで純粋な思いがレースという形になっただけだった。4ストの大型市販車による改造車レースは、ヨシムラにとっては最高の場で、参加者が使うチューニングパーツは、ヨシムラ製品そのものなのだ。

こうしたアメリカ市場の気運からAMAは、1974年ラグナセカ(優勝Z1。Y・デュハメル)、1975年デイトナ(フロリダ州。優勝は敵方ヨシムラRACING Z1のデビッド・アルダナ)とラグナセカ(ここでも敵方デール・スター・エンジニアリングZ1のD・アルダナが優勝)でプロダクションレースを全米選手権と併催していった。

そして1976年、スーパーバイクプロダクションレースを、AMAは正式レースとしてロードレースの各ラウンドで開催することになったのだ。これが現在のスーパーバイク世界選手権や全日本JSB1000などスーパーバイクレースのルーツになる。ルールは1000ccまで、フレームはスタンダード、外観はスタンダードシルエットを守るというものだった。このルールでは集合管やCRキャブは使えず、Z1だとダブルディスク化はOKだが、4本マフラーのまま。エンジンはストロークを変更しなければ、改造は自由だった。

記念すべき初レースとなった開幕戦デイトナではBMWのインポーターのバトラー&スミス社がフルチューンした3台のR90Sの独壇場だった。2台はリアサスをヤマハ流のカンチレバーサスに改造してあった。スイングアームはフレームではない、というレギュレーションのすき間を突いたものだった。レースはS・マクラフリン(2本サスR90S)が写真判定でレグ・プリッドモア(1本サスR90S)を抑えて優勝した。

そして観客の目を奪ったのはコレだけではなかった。グリッド最後尾から4位まで追い上げたウエス・クーリーだ。バイクは1975年6月1日にカリフォルニア州ノースハリウッドに設立した新会社ヨシムラR&Dオブ・アメリカでPOPがフルチューンしたZ1だった。W・クーリーはヨシムラ初の契約ライダーで、医療関係の勉強をしていた学生だった。父親もレーシングライダーで、西海岸を中心にクラブレースを開催していたAFM(アメリカン・フェデレーション・オブ・モーターサイクリスツ)の代表でもあった。

南カリフォルニアの若者らしく、明るくフレンドリーなW・クーリー。コーナーでは大きく腰を落とし膝を路面に擦り付け、立ち上がりでは誰よりも早くワイドオープンしタイヤを大きくスライドさせていた。デイトナの31度バンクやグランドスタンド前18度バンクなど最高速域では、激しくフラれて腰がシートから落とされるが、ひるまない。直線ではヨシムラパワーが圧倒する(最高速は20㎞/h以上上回る)が、ヒドい振れが出て、ブレーキングやコーナリングでBMWやドゥカティ(750SS)など2気筒勢に抜かれてしまう。が、それでもスロットルを開け、挑む。「彼の目はガンマンのようだ」と言われ、ラウンドが進むにつれ4気筒勢の暴れ様からスーパーバイクはいつしか「ウォブルパレード」とか「ならず者の度胸試し」などと言われるようになった。

Z1は車体剛性がパワーに完全に負けていたし、100㎰に満たない2気筒勢はベースがカフェレーサーなのでハンドリングが良かったから、こうした現象になったのだが、この4気筒vs2気筒の争いがスーパーバイク人気を押し上げた。バイクのスタイルもライダーもワイルドで、何しろ音が良かった。アメリカのバイクファンはやっぱり4スト好きなのだ。オフロードモデルやオンロードでも小さいヤツなら2ストも良いけれど、大排気量は……ということだ。

1976年の全4戦でBMWが3勝、モトグッツィが1勝と、4気筒勢は1勝もできずに終わった。W・クーリーは第1戦デイトナ4位、第4戦リバーサイド5位と、AMAスーパーバイクでは表彰台に上がれなかったが、AFM主催の10月のリバーサイドでは優勝して才能を証明した。

POPは車体に問題があることは承知していた。ヨシムラは九州・雁ノ巣時代からエンジンだけでなく、各部軽量化を含む車体チューンも積極的に行ってきていた。ただ、スーパーバイクのレギュレーション、当時のショックユニットのレベルなどから、ヨシムラZ1エンジンのパワーに車体が見合っていなかったのだ。さらに不二雄がビザの関係でこの頃は日本にいなければならなかったことも戦力ダウンになっていた。その不二雄が晴れてワーキングビザを取得し、1976年11月にアメリカにやって来た。これでやっと体制が整った。その少し前、POPはスズキと運命の出会いを果たすが、肝心のニューバイクがヨシムラに届くのはずっと後になり、1977年はZ1でしばらく戦うことになった。

3月のデイトナに向けてマシンの準備をしていた1977年2月18日、とんでもないことが起こった。ノースハリウッドのワークショップが火事になったのだ。大爆発を避けるためフューエルタンクを抱えて出口に向かうPOPを炎が包んだ。この決死の行動でタンク爆発は防げたが、POPは顔から腕にかけて大火傷を負った。入院は約1ヵ月。皮膚移植、皮膚再生は辛くで、夫を看病する直江も大変だった。

ワークショップの火事から1ヵ月も経たなかったが、何とか出場できた1977年のAMA開幕戦デイトナ。仲間たちの助け、スタッフの頑張りがあった。不二雄(右)の微笑みが何とも言えない。#33のW・クーリー用Z1に跨るのはメカニックの渡部末広(元ヨシムラR&D副社長)。#25のZ1はD・エムデのマシン(マック・カンバヤシチューン)。2台ともZ1なので4本マフラーだ。

大変だったのは不二雄もだった。ワークショップもマシン(Z1)もすべて燃えてしまったのだ。1度はデイトナ参戦を諦めた。が、POPの見舞いに来たり電話をかけてきたスーパーバイク仲間(W・クーリーはもちろん、ライバルのR・プリッドモアやクック・ニールソンたち)が

「ヨシムラが出ないとスーパーバイクレースは盛り上がらない。デイトナに出てくれ」

と口々に言うのだ。さらにマシン製作や各種加工などを手助けしてくれるチューナーや機械加工業者なども現れた。

「本当にありがたかったよ。レースでは競争相手だけど、同時に仲間だった」

と不二雄。AMAスーパーバイクの理念はコンペティター、ファン、そしてアフターマーケットサプライヤー(ヨシムラがそ代表的存在だ)に興味を抱かせることだ。この主旨はレギュレーションにも明記されていた。つまりメーカー主導ではなく、チューニングし、走り、それを観る人々が主役なので、レースに参加しているすべての人々は競争相手であると同時に一緒にスーパーバイクレースを作り上げている仲間でもあるのだ。この頃は正にスーパーバイクレースの黎明期であって、特にそうした雰囲気だった。そしてロサンジェルスを中心とする南カリフォルニアの環境にも窮地を救われたのだ。

「クルマで1時間も行けば何でもそろったよ」

バイク用パーツもボルトも、航空機用材料や機械加工や溶接まで世界最新のテクノロジーが、この南カリフォルニアにあったのだ。クルマのホットロッド、飛行機、船舶などに携わるプロ中のプロもたくさんいた。そんな仲間や環境に助けられ、ヨシムラは1977年デイトナ参戦にこぎつけた。

1977年、AMAスーパーバイクはレースが増えて全7戦のスケジュールが組まれた。開幕戦デイトナ(3月11日)でW・クーリーはスタートよく飛び出しトップグループを引っ張るが、サスのダンパーが抜けてきて恐ろしく振れ出し、3位。優勝はサイクル誌編集長でもあるC・ニールソンで、ドゥカティ750ss/883はハーレーチューナーなどの手を借り独自にチューンしたもので“カリフォルニア・ホットロッド”と呼ばれた。ラップタイムはケニー・ロバーツ+TZ250と同等という速さだった。また、W・クーリーのヨシムラZ1は最高速246.27㎞/hと最速だった。

続く第2戦シャーロット(ノースカロライナ州)でもW・クーリーは3位。またも振れが酷かったのだ。優勝はモトグッツィ、ルマン860のマイク・ボールドウィン。第3戦ラウドン(ニューハンプシャー州)ではBMW R90Sのロン・ピアースが優勝。第4戦シアーズポイント(カリフォルニア州。サンフランシスコの北ソノマ)ではS・マクラフリンがヨシムラZ1で出場したが、プラグコードが抜けリタイア。優勝はまたも2気筒ドゥカティ750S/860のポール・リッター。第5戦ポコノ(ペンルベニア州)で日本製4気筒がAMAスーパーバイク初優勝を果たすが、ヨシムラではなくレースクラフターズKZ1000だった。W・クーリーはバルブトラブルでリタイアしてしまった。

やっぱり集合管が付いてこそヨシムラマシン。1977年までAMAで禁止され、AFM主催のオンタリオやリバーサイドでしかその姿が見られなかった。写真は集合管解禁となった1978年AMA仕様Z1(W・クーリー車)。キャブはミクニスムーズボアφ29mmで、AMAでケーヒンCRが使えるのは1979年からだ。また、1978年頃までZ1などはフロントが溝付きレースタイヤでリアだけスリック。振れるのでフロントをスリックにできなかった。

AMAスーパーバイクでは速いものの今ひとつかみ合わないヨシムラだったが、4月24日に開催されたに西海岸最大のクラブレース「AFMオンタリオ6時間」でW・クーリー/トニー・マーフィーが優勝。AFMのオープンクラスはAMAと違って改造はほぼ自由で、ヨシムラZ1はAMAでは使えないビッグボアエンジン、集合管、CRキャブのフルチューンだった。このレースにはプライベーターのGS750/845(総合7位)やGS550(550ccクラス優勝)なども参戦していて、ポテンシャルを示してした。ヨシムラも新型GS750スーパーバイクを急ピッチで製作していた。そしてAMA第6戦ラグナセカ(カリフォルニア州)ではGS750(S・マクラフリン)がデビューウィンを飾り、最終戦リバーサイドではW・クーリーがAMAスーパーバイク初優勝をZ1で成し遂げ、ヨシムラは波乱の1977年シーズンを終えた。ただ、ここに至るまでのストーリー(特にスズキとGSに関して)は、実に運命的で、時間を一旦1976年に戻してみることにしよう(次回に詳しく)。

ドラッグレースでもヨシムラZ1キットは人気だった。これがφ73㎜ピストン使用で1105cc。ピストンはストリート~ロードレース用までφ69㎜、69.4㎜(AMA対応)、φ70㎜(KZ1000スタンダードボアで1015cc)などがラインナップしていた。φ73㎜はドラッグレースや改造自由なAFMでのレースに使われた。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748
電話/0570-00-1954
営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。