『バイク乗りの勘所』

一芸を究めた人は、いくつになってもカッコいい

掲載日:2011年10月17日 タメになるショートコラム集バイク乗りの勘所    

Text/Nobuya YOSHIMURA

ツインリンクもてぎで行われた日本GP(MotoGP・日本ラウンド)に行ってきた。取材ではなく、久しぶりにメカニックとして…である。ヤマハのWGP参戦50周年記念イベントのひとつ “メモリアルラン” を走った歴代ワークスマシンの中の1台、1995年型 YZR500 が私の担当車両だった。世界GPフル参戦を開始した年にノリック(阿部典史)が乗ったマシンを走行可能な状態に整備し、ノリックのお父さんの阿部光雄さんが走らせたのである。

メモリアルランには、他に、本橋明泰、河崎裕之、中野真矢という、かつてのGPライダーが出走。本橋さんといえば、1960年代から70年代にかけて、ヤマハのワークスGPマシンの開発に携わり、以後の日本人ライダーに多大な影響を与えた人である。あの浅間火山レースを走った経験も持つ、もはや伝説のライダーと言ってもいい御年72歳。その本橋さんが走らせたのは1974年型の YZR500。37年前のワークス・ロードレーサーだ。

「私は、グランドスタンドで見ているお客さんの前で、いい音を響かせながらストレートを通過したいんです」とは、練習走行の前の本橋さんの言葉。ライダーとマシンの安全を考え、1周ずつ、ゆっくり、確かめながら走ってもらおうとしていたスタッフに対し、きっぱりと言い放たれた本橋さんは、練習でも本番でも、その言葉どおり、素晴らしい半クラでスタートを切り、2ストレーサーの快音を響かせてストレートを疾走されていた。

速く走る必要はなく、ご本人にもまったくその気はなかったが、お客さんが期待して見守っているのだから、それに応えたいという気持ち。それは、陳腐な “プロ意識” などという言葉では表せない、レーサーとしての生きざまがそのまま現れた瞬間だった。“さすが” とか “カッコいい” とか、月並みな言葉しか思いつかないが、72歳になってもなお周りを感動させる本橋さんは、やはり “カッコいい男” の見本のような人だった。

こちらの記事もおすすめです

この記事に関連するキーワード

新着記事

タグで検索