【ヨシムラヒストリー08】夢のアメリカ進出。CBでもZ1でも大成功

ロサンジェルス近郊のシミバレーに1972年末に設立された“ヨシムラRacing”のワークショップで。不二雄とCB500改レーサー。フレームはライダーでもあったトニー・マーフィ設計のスペシャル。

【ヨシムラヒストリー08】夢のアメリカ進出。CBでもZ1でも大成功

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2019年10月23日

1972~1973 American Dream on CB and Z1

1972年デイトナ200マイル初参戦から、たった1年でヨシムラは世界の4ストロークチューニングに歴史的な変革を起こした。クラウスホンダCB750FOURに施したハイカム、ポーティングなどのエンジンチューニング、そして4 into1パイプ:集合管が、その後の並列4気筒の在り方を変えてしまったのだ。

ただ、あの頃は、未来を予想する時間もPOPにはなく、ただ、可能性を追い求めて日々チューニングに明け暮れていただけだった。1971年のオンタリオ250マイル以降、集合管への反響は凄まじかった。模倣するチューナーやパーツメーカーも非常に多かった。さらに1972年デイトナ200マイルで、全57ラップ中27ラップ時点でトップを快走していた衝撃は、その後のヨシムラへのCB用チューングパーツの注文に現れていた。売れに売れたのだ。

CB750FOUR用のパーツは飛ぶように売れた。レース用だけでなくカフェレーサー(ヨーロッパで人気)などにも使われた。ヨシムラからもレース用アルミタンク、シートカウル、カウリングなどがリリースされていく。

POPは以前からアメリカ進出を考えていた。福岡・雑餉隈から東京・福生への移転時点でもアメリカも移転候補だった。1972年に入ると、アメリカ人でフライングタイガー社の機関士デール・アレクサンダーとパイロットのスター・トンプソンが秋川のヨシムラを頻繁に訪れるようになった。2人はCB750FOUR用のチューニングパーツ(ハイカムやピストンなど)を彼らの飛行機に積み、アメリカに持ち込み売っていたのだ(実はこれは密輸で、このことが後にヨシムラにとって復権を果たす要因にもなったのだが)。

そしてデイトナやオンタリオでのクラウスホンダの快走や集合管デビューもあり、それこそヨシムラパーツは飛ぶように売れた。そのうち2人はアメリカで新会社を設立しようとPOPに持ち掛けた。POPは国内2輪レースが2ストローク優勢になり、4輪レース用チューニングにも興味を失っていたこともあって、4ストロークの大型バイクのチューニングがそのまま生かせるアメリカは夢の場所に思えたのだ。

そしてアメリカ人2人が50%、POPと不二雄が50%の出資で、1972年末にロサンジェルスの北にあるシミバレーに“ヨシムラRACING”を設立した。ワークショップは広々としていてクリーンで、アメリカの有力レーシングチームや大手ディーラー(クラウスホンダがそうだ)のようで、秋川工場とは別世界がそこにあった。また、集合管も1972年中には市販を開始した。

ある日のテスト。バイクはアメリカで不二雄が愛車にしていたCB500FOUR。不二雄は日本ではCB750FOURで集合管の開発テストを務め、アメリカでも同様にZ1などの実走テストを行った。

同じ頃、ヨシムラにとっても、その後のバイク界にとっても重要な歴史的モデルが発売された。カワサキ900 SUPER 4・MODEL Z1だ。CB750FOURを超える903ccの空冷並列4気筒DOHC2バルブエンジンは、ここから始まる空前のビッグバイクブームの先陣を切っただけでなく、大型マスプロダクションバイク初のDOHC4気筒だった。Z1は日本で1972年8月から生産が開始され、アメリカでは同年11月から市販された。

「ちょうどその頃だったと思うよ、USカワサキ(カワサキモータースUSA)に行って実車を受け取ったのは」

ヨシムラはUSカワサキから話題のZ1を借りることができたのだ。このZ1は量産車なのか、それ以前にプロモーションなどに使うために製作された先行試作車なのかは不明だが、ともかくUSカワサキからシミバレーのヨシムラレーシングへの帰り道のフリーウェイで、不二雄はZ1に乗っていた。

「パワーは俺のCBの方があったけど、エンジン特性は比べ物にならないほどZ1の方が良かった。振動も少ない。130mph(約209㎞/h)ぐらい出たかな。ただその高速域では車体に振れが出た。まあ、自分のCBも似たようなものだったけど」

Z1はさすがにDOHC。SOHCのCB750FOURとは違って当然だ。パワーに関してはこのヨシムラCB750FOUR・KOはボアアップしてあった。集合管開発にも使われたこのK0は、ポーティング、面研(圧縮比アップ)、クランク・コンロッド鏡面加工、ハイカム、ケーヒンCRキャブ、そして4 into 1集合管とフルチューンだったから、いくら903ccDOHCのZ1でもスタンダードでは太刀打ちできない。ちなみにヨシムラのCB750FOUR用ピストンはφ64㎜(810cc)→φ64.5㎜(823cc)→φ65㎜(836cc。現行品と同じ)と進化していった。

ワークショップに戻ると、POPが待ち受けていて、すぐにZ1のシリンダーヘッドカバーが外された。なるほどだった。CB750FOURの後を受けての最新モデル。CB750FOURのチューニングで泣かされたカムチェーン周りはアイドラー/テンショナー/ガイドなどの配置が良く、それらの数も多かった。これならカムチェーンの振れやたるみが軽減でき、正確なバルブタイミングが得られそうだったし、カムチェーンの張りが適正なら耐久性・強度も得られるだろう。

こうした構造確認が終わるとシリンダーヘッドが外され、ヘッドチューンが始まった。カムは、外したSTDカムをリグラインドしてハイカムを製作。これはカムシャフトのベース円を旋盤で小径に加工してリフト量を増やす方法で、カム山はグラインダーや砥石を使い“手”で仕上げる。ベース円を小径にするとバルブステム長が足りなくなることもあるが、このときは、タペット外側のシムを厚いサイズにして対処できた。さらに吸排気ポートをポーティング。マフラーはSTDの4本出しのままだったが、サイレンサーを抜いた。

「腰下はSTDのままでピストンもSTDだったけど、最高速は10mphは上がった。エンジンは1万rpm以上回ったよ。ここまで2、3日くらいでやったと思う」

ヨシムラにとってはライトチューンだが、この性能だ。これならイケル。Z1のチューニングの可能性に手応えを感じた。S600/800以来のDOHC。ビッグバイクもDOHC4気筒時代に入る。そう感じた。この後このZ1は、STDと比較テストしたいというUSカワサキに返却した(行方は不明)。

1973年3月、デイトナでカワサキが行った速度記録チャレンジ。バイクはヨシムラエンジン搭載のカウル付きZ1で、ライダーはY・デュハメル。不二雄はメカニックとして現場で挑戦をサポートした。

これでヨシムラチューニングレベルの高さを確認したカワサキは、1973年3月にデイトナで挑戦する速度世界記録用Z1エンジンのチューニングを依頼してきた。トライアルはデイトナ200マイル後の3月13~15日にデイトナインターナショナルスピードウェイの2.5マイル・トライオーバルで行われる(インフィールドを使用せず、東西に31度バンクがある外周路だけ)。

エンジンは日本でPOPがチューンし、カワサキ本社(明石)に納品され、そこからUSカワサキ→デイトナへ送られた。このZ1エンジンはピストンがSTDで、腰下もSTDだったが、ヘッドはフルチューンで、CRキャブや集合管も装着された。

カワサキはヨシムラチューンのZ1の他に2台のSTD・Z1をデイトナに持ち込んだ。1台はヨシムラチューンエンジンを搭載したスプリント仕様で、フルカウル(白)、テールカウル、クリップオンハンドル、強化リアショック、レーシングタイヤ(グッドイヤー。当時は溝付き)が装着された。

挑戦するのはクローズドコースでの1ラップレコード(1周の平均速度)、0-10㎞と0-100㎞の平均速度記録だ。ライダーはUSカワサキのエース、イヴォン・デュハメル。残る2台は連続24時間走行距離記録を狙う。高速連続走行と安全性を考慮して低いスワローハンドル(バーハンドル)、強化リアショック、レーシングタイヤ(グッドイヤー)を装備した以外はSTDだった。ライダーは1台がゲーリー・ニクソンとアート・バーマンというトップライダーに加え、USカワサキ社員のブライアン・ファーンズワース、モーターサイクルウィークリー誌編集者のジョン・ウィード。もう1台がハーレー・ウィルバート、クリフ・カー、そしてカワサキ本社ライダーで元ヨシムラライダーの和田将宏、サイクル誌編集長クック・ニールソン(後にAMAスーパーバイクでドゥカティ900SSで優勝)。

「レーシングライダーだけじゃなく雑誌編集者も乗せたんだから、カワサキは相当自信があったんだろうね」

そういう不二雄はヨシムラレーシングのメカニックとともに現地でヨシムラZ1のセットアップのために、この挑戦に立ち会った。

世界に大々的に報じられたカワサキZ1の世界新記録達成。ヨシムラも自社で広告やカタログにこれを出した。ここからZ1は世界のバイク界の頂点の立つモデルとなっていく。このバイクはヨシムラエンジンのスプリント記録用でライダーはY・デュハメル。

結果は合計46個の世界記録(FIM)とAMA記録を樹立し大成功。その主な記録はヨシムラエンジンのZ1が1ラップ:160.288mph(約258㎞/h)、0-10㎞:150.845mph(約243㎞/h)、0-100㎞:141.439mph(約228 km/h)。STDのZ1が24時間:走行距離2,630.402マイル(約4232㎞)、平均速度 109.602 mph(約176㎞/h。従来記録を20mph以上回った)。この挑戦は映像にも納められ、全世界に向けてZ1の速さ、耐久性をアピールした。同時にヨシムラチューンの優秀さをアピールする絶好のプロモーションになった。
※デイトナの記録はカワサキプレスリリースのデータ。記録の数は当時の雑誌では45で、カワサキでは46。数値もヨシムラ広告などとは異なる。

上はボンネビルでZ1を調整中のPOP。下はワークショップでヘッドチューンを行うPOP。CB750FOURやZ1を一気にハイパワーにしてしまうそのチューニングはアメリカで大いに注目され、徐々に尊敬さえされていく。

さらにヨシムラは同じ年の8月、ソルトフラッツ(乾いた塩の大地)で行われる世界速度記録会“ボンネビルスピードウィーク”(ユタ)にも挑戦した。ヨシムラはZ1、CB750FOUR、CB500(ボアアップ)など4台を持ち込み、計7個の世界記録を樹立した(ライダーはD・アレクサンダー)。この挑戦はPOPが現地で指揮を執った。

また、6月にはマン島TTのプロダクションクラスでヨシムラチューンエンジン搭載のCB500FOURが優勝(イギリスでヨシムラパーツを販売するディクソンレーシングのバイクだ)。

9月にはヨーロッパでの挑戦が待っていた。1973年9月22-23日のフランス・ルマン(ブガッティサーキット)で行われる第37回ボルドール24時間に参戦するZ1のエンジンチューニングをカワサキ本社から依頼されていたのだ。

ヨーロッパ、特にフランスで耐久レースはGP以上の人気があり、走るバイクは市販車エンジンを使うから、結果はそのままバイクの評価や売れ行きに直結するのだ。カワサキは発売したばかりのZ1をここでアピールしたい。日本のヨシムラ(秋川)にはカワサキ本社からエンジンが送られ、不二雄とメカニックがチューニングした(POPはシミバレーにいた)。

フランスにはエンジンメカニックとして不二雄が派遣された。ヨシムラエンジンのZ1は6台がエントリーし、総合で2、4、5、7位を得た。優勝はナンバー1チームのジャポート(フランスのディーラー。CB750/969cc)だったが、ヨシムラチューンの優秀さは充分に証明できた。また、ボルドール用カムはリグラインドやステ盛り(カム山にステライトを溶接して山を高くする方法)などではなく、STDの未加工カム(Z1用は純正でも初期型は中空だった)を入手し、日本でカム研削機(機械式のナライ式カム研削機)で加工したもの。この手法はこの後精度の高いハイカム量産には欠かせないものになっていく。

CB750FOUR用に続き大ヒットしたZ1用チューニングパーツ。カムはSTD未加工カムからカム研削機で加工する方法に切り替えられていく。他にCB500FOURやアメリカで人気のあるプレイバイク(ホンダXR75、XLなど)のパーツも発売。

そして今や本拠地のアメリカでは1973年7月28日、ラグナセカ(カリフォルニア)でAMAが初めてプロダクションレースを開催した。これはAMAシリーズのサポートイベントで、Z1を駆るY・デュハメルが優勝。バイクは低いハンドルを装着したぐらいのSTD仕様だった。

このラグナセカ以前からアメリカ各地でプロダクションレースが行われるようになり、アメリカのロードレースも2スト純レーサー主体のものとは異なる潮流が流れ出していた。こうしたアメリカの情勢はチューニングメーカーのヨシムラには大いに味方した。けれどもヨシムラ内部では、黒い思惑が徐々に表面化してきた。これはアメリカ人共同経営者の仕業だった。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。