【ヨシムラヒストリー04】POPの熱意で雁の巣で全日本クラブマンレース開催。鈴鹿18時間優勝も九州ライダーだった。の画像

世界屈指の4ストロークチューナー、ヨシムラ。その歴史は、数奇な運命に翻弄されながらも、巨大な勢力に挑戦し続けてきた日々だった。創始者POPと、その長男・不二雄。そして第3世代へ。九州から東京へ、日本からアメリカへ。ヨシムラの足跡を追う。

【ヨシムラヒストリー04】POPの熱意で雁の巣で全日本クラブマンレース開催。鈴鹿18時間優勝も九州ライダーだった。

  • 取材協力、写真提供/ヨシムラジャパン、森脇南海子、ロードライダー・アーカイブス
    文/石橋知也
    構成/バイクブロス・マガジンズ
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  • 掲載日/2018年11月16日

to 1965 ALL JAPAN in GANNOSU

1962年7月14日、15日、POPの熱意もあって第5回全日本モーターサイクルクラブレースが雁の巣飛行場で開催された。

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第5回全日本クラブマンは九州初のビッグレース。雁の巣に数万人。バイクもレースも知らない人々も当然多く、とにかく博多の大きなお祭り気分だった。

主催はMCFAJ(全日本モーターサイクルクラブマン連盟)とKTA(九州タイミングアソシエーション)。つまりKTAの実質的ボスであるPOPが、レースを仕切っていくのだ。後援はシェル石油と月刊モーターサイクリスト誌(MCFAJ会長の酒井文人氏の会社八重洲出版発行)だった。

各メーカーは、この雁の巣に以前から注目していた。1959年のホンダのマン島TT初参戦から、ヤマハやスズキがそれに続き、世界最高峰のグランプリ(GP)ロードレースへの挑戦はメーカーの威信をかけた戦いにもなっていた。一方で、国内は火山灰と土の浅間高原でのレースが最高峰だったので、舗装路コースでのレースを渇望していた。

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雁の巣の象徴でもある“格納庫”の左手を見る直線区間。ここで仲間にピットサインを出すKTAのメンバー。

全日本クラブマンレースは第3回が宇都宮飛行場、第4回がジョンソン基地(現在の自衛隊入間基地)と舗装路で行なわれていたが、コースレイアウトは単純で、本格的なロードレースとは趣きが違った。

POPたちも芦屋基地での舗装路レースも開催したが、これもシンプルなレイアウトだった。一方、雁の巣は海側直線区間が砂利道ではあったが2/3ぐらいは舗装路で、直角コーナーや長い直線区間(1km以上)もあり、GPに参戦中の各メーカーも注目していたのだ。そして、そこを走るPOPチューンのCB72/77の速さもウワサになっていた。

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雁の巣は3つのロングストレートがある。最高速はもちろん、ここからの突っ込み、そして加速が勝負。POPのマシンはエンジンだけでなく軽量化した車体も武器だった。

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手前はホンダの市販レーサーCR-93。このレースを機に雁の巣に市販レーサーが走るようになりヨシムラにもCR-72/77が供給されるようになった。

第5回全日本クラブマンレースにはアマチュア向けのクラブマンレース(50cc、125cc、250cc、350cc、500cc以上)と、全日本クラスが参戦する選手権レース(50cc、125cc、250cc。クラブマンレース5位までを招待)があり、土曜日が予選、日曜日が決勝だった。最終的に173台(クラブマン50cc 28台、125cc 39台、250cc 39台、350cc 24台、500cc以上 9台、選手権が50cc 13台、125cc 17台、250cc 11台)が、土曜日の予選と日曜日の決勝に出走した。

ホームレースでもあるKTAメンバー(米兵も)や九州勢はもちろん、ホンダ、ヤマハ、トーハツ、コレダ(スズキ製バイクの商標だった)、外車(輸入代理店バルコムモータースなど)など各メーカーから参戦。日本メーカーは直接のファクトリーチームではなかったが、直系チームから有望なライダーとファクトリーマシンやファクトリーサポートマシンを大量にエントリーさせた。

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メーカーファクトリーチーム・マシンも参戦。ヤマハのマシンはシートで隠され、いかにもという雰囲気だった。ここはトーハツ。

ホンダは市販レーサーCR-110(50cc)やCR-93を投入。ヤマハは市販車両改のYDSではなく、次期市販レーサーのTD-1のプロトタイプを持ち込んだ。これは打倒CB72の秘策だった(常にシートを被せ、走行後は福岡営業所に持ち帰っていた)。

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大きな木に登って観戦。その下をKTAメンバーの永末順三が全開で行く。永末の愛車はPOPチューンのCB77だった。

クラブマンレースの決勝でも、メーカー系ライダーとマシンが九州勢を圧倒。大月信和(ホンダ CR-110)、安良岡健(トーハツ・後にスズキ・ファクトリーへ)、生沢徹(トーハツ・後に4輪で海外でも活躍)、三室恵義(ヤマハ・ファクトリーライダーに)、片山義美(ヤマハ・後にマツダで名ドライバーに)など、その後の2輪、4輪レースで日本をけん引する男たちが表彰台を独占した。

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クラブマン250ccでは、優勝三室恵義、2位片山義美、3位久木留博之(以上ヤマハ)、4位安良岡健(トーハツ)というファクトリー勢の2ストにKTA(福岡ホンダ)の鴨川清志(CB72)が善戦し5位(写真右)。

KTAは鴨川清志や松本明が入賞したが、全日本との差は明らかだった。POPはクラブマン500cc以上のBSAで走り、トップを走行中に転倒。気性の激しさ故で、以後ロードレース参戦を止めてしまった。

大会は大成功だった。観客数は2万人以上ともいわれた。そしてPOPは、各メーカーが無視できない存在になっていった。

この雁の巣レース後の9月には、日本初の完全舗装クローズドコースの鈴鹿サーキットが完成し、11月にはMFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)第1回全日本選手権ロードレースがオープニングレースとして開催された。そして1963年に世界選手権ロードレース日本GPが行われた。この鈴鹿の日本GPには、POPの後押しもあってヨシムラ門下生の永松邦臣が、GP125にホンダファクトリーマシン RC145(並列2気筒DOHC4バルブ。1962年世界GP全勝)で参戦し、見事に7位に入った。

さらに永松は、1964年には50ccと350ccで各5位、1965年にはPOPチューンのCB77でも日本GPへ参戦した(ヨシムラCBは残念ながらリタイア)。POPが育てた雁の巣ライダーが世界に通用したのだ。永松の他にも、ホンダの鈴鹿での合宿(田中健二郎率いる通称健二郎学校)へ高武富久美らが参加。POPはこの様子を見ようと、福岡から愛車BSAを自走させた。じつは、POPは4輪免許がなく、舗装されていない国道もあったが「楽しいツーリングだった」と後に語っていた。

田中健二郎は福岡出身で、オートレース(川口や九州・飯塚など)で活躍後に、ホンダで世界GPにも参戦。ホンダから新しいロードレース時代のために才能発掘を任されていた。POPはその健二郎に永松や高武ら雁の巣ライダーを見てくれ、と以前から依頼していた。最終的に永松と高武の2人がピックアップされた。

雁の巣では1963年7月20日、21日に第1回九州ロードレース大会が開催された。前年の全日本クラブマンと違い、これはKTAとMFJ九州各支部が共催した、九州ライダーのための大会だった。もちろんPOPは審判部長として運営の中枢を担った。ヨシムラの高武、永松、倉留福生、福岡ホンダの松本ら、雁の巣常連ライダーが上位を占めたのは当然だった。

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1962年に日本初の国際レーシングコース“鈴鹿サーキット”が完成。もちろんパーマネントの完全舗装路。その最終コーナー上からの眺め。

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1963年に日本初開催(鈴鹿)となった世界GPには永松邦臣がRC145で参戦。POPが育てた九州ライダーがホンダに認められた。

1964年、POPとその後のヨシムラにとって大きな転機となる耐久レースが鈴鹿で開催された。『鈴鹿18時間耐久レース』は8月1日午後8時にスタートし、翌2日午後2時にゴール。POPは九州勢の総監督として2チームを率いていた。ヨシムラチームはCB72で250ccクラスへ倉留/渡辺親雄/高武で、福岡ホンダチームはCB77(ヨシムラのフルチェーンマシン)で251cc以上クラスへ松本/緒方政治/青木一夫でエントリー。

レースはヨシムラチームと福岡ホンダチームが、ホンダ社内チームと激しく争った。POPチューンのヨシムラCB72は速く、ホンダ研究所のCBを直線で軽々と置き去りにした。残念ながらヨシムラCB72はリタイアしたが、福岡ホンダチームがホンダ研究所チームを追い上げ、本家研究所チームがエンジントラブルでリタイアし、見事優勝。表彰式では監督のPOPも表彰台に上がった。九州にヨシムラあり。POPの名が全国に知れ渡った瞬間だった。

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鈴鹿18時間にヨシムラはCB72で参戦。ピットワークの陣頭指揮を執るのはもちろんPOP。この#18は残念ながらリタイア。じつはPOPは1963年ホンダから市販車チューンを依頼されていた。

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鈴鹿のヘアピンを立ち上がるヨシムラCB72。鈴鹿18時間耐久はMFJ主催で現在の鈴鹿8耐のルーツ。14年後の1978年第1回8耐でヨシムラは優勝。

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1964年鈴鹿18時間耐久優勝のCB77(福岡ホンダチーム)。雁の巣KTA仲間のこのマシンもPOPの手によるフルチューンだった。

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1964年鈴鹿18時間耐久で雁の巣KTAライダーが優勝。総監督のPOPが表彰台に上がり盛り上がった。

鈴鹿18時間でのヨシムラCBの素晴らしい速さは、ホンダ社内でも評判になった。何とホンダが社運をかけたスーパースポーツモデルCB72/77で、本家ホンダ社内チームを上回ったのだ。実はこの鈴鹿18時間以前からヨシムラに注目していたホンダは、福岡・雑餉隈までGP関係者が出向き、POPにCB72/77が参戦する国内ジュニアクラス向けのマシンチューニングを依頼していた(1963年)。尊敬する本田宗一郎の会社、ホンダからの頼みなのだ。悪い気はしなかった。

じつはPOPは、この頃すでに中央進出を考えていて、アメリカへという考えもあった。福岡での活動は限界を感じていたのだ。お客の米兵も転属や基地縮小などで減り、その一方でアメリカに帰国したり、関東地区へ転属した米兵からの注文が増えるなど、ヨシムラをとりまく状況は急速に変化していたが、POPは高武や和田のマシンチューニングやサポートをするために中央進出時期を遅らせていただけだったのだ。けれども機は熟した。1965年4月、ヨシムラは東京・福生へ移転した。

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1965年日本GPにPOPはCB77で永松を走らせた。結果はリタイアだったが、GPマシン相手に速さを比較でき手応えは充分だった。

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鈴鹿の通称“健二郎学校”は全国から有望な若手を集め合宿させた。後列右から永松邦臣、POP、山下護祐(ホンダで日本GPも走る)、高武富久美、ペイン(板付基地の米兵)、田中健二郎、ビーバー(板付基地の米兵)。前列右が松永喬(4輪転向後、鈴鹿スプーン手前でクラッシュ。以後ここはまっちゃんコーナーと呼ばれる)、中央のマシン間にいるのが長谷見昌弘(その後ニッサンに)。

ヨシムラジャパン

ヨシムラジャパン

住所/神奈川県愛甲郡愛川町中津6748

営業/9:00-17:00
定休/土曜、日曜、祝日

1954年に活動を開始したヨシムラは、日本を代表するレーシングコンストラクターであると同時に、マフラーやカムシャフトといったチューニングパーツを数多く手がけるアフターマーケットメーカー。ホンダやカワサキに力を注いだ時代を経て、1970年代後半からはスズキ車を主軸にレース活動を行うようになったものの、パーツ開発はメーカーを問わずに行われており、4ストミニからメガスポーツまで、幅広いモデルに対応する製品を販売している。