社旗をはためかせ走るプレスライダー/バイク全盛期’80年代回想コラム・プレスライダー編

掲載日:2018年07月18日 トピックス    

文/栗栖国安 写真/ロードライダー編集部 記事提供/BikeBros.2018編集部
※この記事は『BikeBros.平成三十年上期編』に掲載された内容を再編集したものです。

社旗をはためかせ走るプレスライダー/バイク全盛期'80年代回想コラム・プレスライダー編の画像

プレスライダーの仲間入りを果たし、月曜から土曜まで毎日のように200km近くを走っていたのに、日曜にはツーリングにも出かけていた。上の写真は先輩たちに連れられて日光へツーリングしたときのスナップ。いろは坂では競争状態で、新人のボクはあっという間に置いていかれた。CB750FOURは赤城山へツーリングしたときのもの。改造進行中でカラーリングも変更途中だ。

バイクを使う仕事といえばいまは、バイク便を思い浮かべる人が多い。しかし'70~'80年代の花形職業といえば、新聞社やテレビ局のプレスライダーだった。ナナハンクラスの大型バイクに風防と社旗棒、タンクバッグの装備が決まりのスタイルだった。

社旗をはためかせて都会を
颯爽と走る姿は憧れの的だった

学生時代、原付バイクで都内を走り回っていた頃、新聞社の旗をはためかせて走り去るナナハンがとてもかっこ良く、免許取りたてのボクには憧れだった。いやボクだけじゃなく多くのライダーから羨望の眼差しで見られていたのがプレスライダーだった。

そして数年後、ボクはプレスライダーの仲間入りを果たし、毎日のように首都高を飛ばしていた。競馬新聞社の原稿輸送ライダーとなったのである。

漠然とした憧れはあっても運転が未熟なボクには縁のない仕事だと思っていた。だが、小型二輪免許を取り、発売間もないハスラー90で都内を走り回ったりツーリングを楽しんでいるうちに、バイクに乗る仕事はできないものか……と考えるようになった。バイクで走るのがとにかく楽しかったのだ。

そんな時である。競馬新聞社のバイク乗りという仕事があることを知った。一般の新聞社や通信社、テレビ局のプレスライダーとは少し違っていたが、自宅にほど近い競馬新聞社に直接電話をして面接を受けた。競馬新聞のアルバイトは基本的に、中央競馬の開催に合わせて金曜、土曜の週2日だ。しかしボクは週6日の常勤として雇われることになった。毎日できるならという条件だったからだ。その新聞社は地方競馬も扱っていたのである。

当初はスズキのハスラー90を使って仕事をしたが、高速が使えなければ仕事にならないので、すぐに二輪免許を取った。今の大型二輪免許である。それを会社に伝えると、社有車を使えと言われた。バイクはホンダCB500FOURだった。「こんなデカイのに乗れるのか?」と不安が先に立った。この大きさとパワーがなけりゃ仕事にならないと先輩に諭され、結局、そのCB500FOURがボクの専用車になった。風防と社旗棒はすでに装着されていて、真新しい社旗が手渡された。旗を巻きつけ、タンクバッグを取り付ける。その出で立ちはかつて憧れていたプレスライダーそのものだった。

社旗をはためかせ走るプレスライダー/バイク全盛期'80年代回想コラム・プレスライダー編の画像

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プレスライダーになって初めて乗った思い出の深いバイクがCB500FOUR。私物ではなく社有車だったが何台か乗り継いだ。慣れると車格はちょうど良く、エンジンもスムーズで扱いやすかった。年間約6万kmを走ったので、よくスロットルケーブルやクラッチワイヤが切れたものだ。スロットルケーブルが切れた時は戻し側のケーブルを引き側に接続し、スロットルを逆回転させて走らせた。4気筒がないヤマハでは2気筒のTX650に乗るものが少なくなかった。

以来、首都高を走る日々が続く。当初は先輩に付いていけず、他社のバイクにも抜かれて悔しい思いをしたが、後方から走り方を見て真似て、徐々に速さを身に着けていった。渋滞の中を走ることも多かったので、ハンドルは幅を詰めた。プレスライダーの王道はハンドルを手前に絞るスタイルだったが、ボクは長身だったためハンドルを狭めるスタイルにした。年間6万kmを走るうち、それなりに速くなった。振り返ってみれば随分と無茶な走り方をしていたのだろうが、プレスライダーの間では名前を知られる存在になっていた。

そんなとき、他社の何人かが私物のZ2を仕事に使い出した。CB500FOURに乗るボクは直線で置いていかれた。「これじゃ勝負にならない」。本来は仕事なのだから安全が最優先なのだが、頭の中はレースモードである。だが同じようにZ2で立ち向かうのはいやだった。行きつけのバイク屋でCB750FOURを買い、プレス仕様にして仕事に使うことにした。ヨシムラの集合管で軽量化し、フロントブレーキをダブルディスクにした。CB750FOURはZ2と互角に渡り合ってくれた。池袋から横浜日ノ出町まで18分の記録も出した。

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ホンダのCB750FOURとカワサキZ2はともに、プレスライダー御用達の人気モデルだった。'69年と発売が早かったCBのほうが台数では圧倒していたが、'73年のZ2登場と同時に乗り換えるライダーが増加した。だがボクは憧れだったCBをあえて選んだ。私物ではそれまでW1SAに乗っていたのだが、CBに乗り換えた瞬間、エンジン、乗り心地ともあまりのスムーズさに驚いた。ちなみに発売当初の価格はCBが38万5,000円、Z2が41万8,000円だった。

その頃ボクは、昼間は競馬新聞、夜はテレビ局と二足のわらじでプレスライダーをやっていた。私物のCB750FOURはすっかり仕事の相棒になっていた。バカげた走りをしていたものだと思うが、仲間たちと競い合って首都高を飛ばしている時間は、とても楽しく充実していた。

一方、社有車はCB500FOURからCB650、そしてGS650Gへとボク専用のバイクは変わっていった。しかし'80年代に入ると、プレスライダーが使用するバイクはナナハンクラスから400クラスへとスケールダウンした。免許制度が変わり中型免許しかない新人が増えたためだ。もちろんそれだけじゃない。400クラスの性能が良くなり、十分に仕事に使えるようになったのも理由だ。

4気筒のヤマハXJ400、スズキGSX400Fを他社が導入。走っている姿を見るととても楽に見えた。ボクがいた新聞社でも400への代替が決まり、どのバイクにするか意見を出し合った結果、ホンダCBX400Fに決まった。たしかに軽くて小回りが利くので渋滞する都内の道が走りやすかった。200km/hというわけにはいかないが、高速も結構速く走れた。ただし、セパレートハンドルのためハンドル幅は変更できないし、風防の取り付けもできなかった。社旗棒とタンクバッグだけのスタイルになってしまったのである。

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'80年代に入ると400ccバイクが主流になった。4気筒モデルの性能が良くなったことと、市場自体も400クラスが中心になったためだ。つまり選択肢が多かったのだ。ヤマハXJ、スズキGSX、それにホンダCBXがプレス業界で多く使われた。不思議なことにカワサキは少なかった。短期間だったがボクはCBX400Fに乗っていた。全体に良くまとまって故障もほとんどなかったが、独自のインボードディスクブレーキのメンテナンスが面倒だった記憶がある。

'70年代に多くのライダーが憧れたプレスライダー独自のスタイルは、'80年代に大きく様変わりしてしまい、同時にバイク便という新たな職業が生まれることになったのである。

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