アメリカンライダーが活躍! バイク全盛期’80年代回想コラム・ロードレースGP編 トピックス

アメリカンライダーが活躍! バイク全盛期’80年代回想コラム・ロードレースGP編

掲載日:2018年07月11日 トピックス    

文/吉村誠也 写真/ロードライダー編集部 記事提供/BikeBros.2018編集部
※この記事は『BikeBros.平成三十年上期編』に掲載された内容を再編集したものです。

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世界選手権といいつつ、ヨーロッパを中心にヨーロピアンライダーが争っていたGPに、アメリカンとオージーの時代がやってきた。’83年のスペンサーから’93年のシュワンツまで、’87年のガードナーを除く10回のタイトルをアメリカンライダーが奪っていった。

アメリカンライダーの台頭と
開催地域の拡大により白熱化した世界GP

2002年に今のモトGPが始まる前の世界GP(世界選手権ロードレース)は、どのクラスにも2ストロークエンジンのバイクしか走っていなかった。4スト車が出場禁止だったというわけではないが、同じ排気量なら2ストのほうが圧倒的にパワフルで軽く、メンテも楽だから、’70年代以降は『世界GP=2ストのレース』だったのだ。

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その、ヨーロッパ中心の世界GPに、外からやってきて大成功を収めた最初のライダーが、ヤマハを駆ったケニー・ロバーツだった。’78~’80年の3年連続で最高峰500ccクラスのチャンピオンを獲ったロバーツは、イタリアのジャコモ・アゴスティーニ、イギリスのバリー・シーンに次ぐロードレース界の帝王となった。

続く’81、’82年の2年間はマルコ・ルッキネリ、フランコ・ウンチーニという2人のイタリアンがスズキでチャンピオンとなるが、’83年にはフレディ・スペンサーが、ホンダの新しい2スト3気筒マシンを引っさげて登場。世界GP史上最も激しいタイトル争いを繰り広げてチャンピオンを獲得。スペンサーに破れたロバーツが引退し、世代交代を印象づけた。

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’78~’80の3年連続で世界GP500クラスのタイトルを獲得し、名実ともに“キング”の座を揺るぎないものにしたケニー・ロバーツ(下)は、続く2シーズンの不振を挽回すべく、仕上がりの良いマシンを得て’83年シーズンに賭ける。そのロバーツに真っ向から挑んだのが、フル参戦2年目のフレディ・スペンサー。ふたりの一騎討ちは最終戦にまでもつれ込み、わずか2ポイント差でスペンサーがタイトルを獲得。スズキに乗るランディ・マモラ(上)がランキング3位に入った。

ロバーツに代わってヤマハのエースとなったのはエディ・ローソン。’84年のタイトルを獲得した彼は、’86、’88、そしてホンダに移籍した’89年にもチャンピオンとなり、’90

年には再びヤマハ、’91、’92の2年間はカジバを駆り、カジバのマシンを初優勝に導いた。

’83年はロバーツとのデッドヒート、’85年は250とのダブルタイトルを獲ったスペンサーだったが、心身に問題を抱え、チャンピオン獲得シーズン以外は欠場や成績不振が続いた。’83年、当時はまだ世界選手権ではなかった日本GPでの、ぶっちぎりの優勝シーンを懐かしく思い出す人もいるはずだ。

そんなスペンサーに代わってホンダのエースとなったのが、オージーのワイン・ガードナー。そしてローソンと並ぶヤマハのトップライダーに成長したウェイン・レイニー。いったん中止した世界GPでのワークス活動を再開したスズキのエースとなったケビン・シュワンツ。そしてランディ・マモラなどアメリカとオーストラリアから有力ライダーが続々と世界GPに進出し成功を収めたのが、’80年代中盤から’90年代初頭だった。

’87年にはいよいよ世界GPの1戦としての日本GPが20年ぶりに復活し、マモラが優勝。’88、’89は2年連続でシュワンツが日本GPの覇者となり、日本での人気急上昇に拍車をかけた。

マシンに目を移すと、’80年代初頭にはスズキとカワサキが2スト・スクエア4気筒、ヤマハが2スト並列4気筒、ホンダが4ストV型4気筒(あのNR500!)だったのに、’80年代中盤以降は、撤退したカワサキを除くすべてのメーカー(カジバを含む)が2ストV型4気筒となり、吸入方式もクランクケースリードバルブ、フレームはアルミ・ツインスパーへと収斂していく。

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’80年代初頭には全6クラスで争われた世界選手権ロードレーGP。’83年までは50cc、’84に80ccに拡大されたものの’89年限りで世界GPの舞台からから姿を消した最小排気量クラス、そして’97年以後は世界選手権から外れたサイドカーもまた、’80年代の世界GPになくてはならないカテゴリーだった。上は日本人・熊野正人がドライバーを務めたレーシングサイドカー、下はクラウザーの50。

珍しいマシンや変わったメカニズムが見られなくなった代わりに、安定して高性能を発揮し、実力の拮抗した各のワークスマシンによる競り合いが見られるようになり、スポーツとしての見ごたえは高まったし、市販車へのフィードバックも短いインターバルで頻繁に行われ、ストリートバイクの性能が飛躍的に高まったのも’80年代だ。

一方、同じ世界GPでも500ccのようなメーカー同士・ワークス契約ライダー同士の闘いではなく、市販レーサーを駆るプライベーターがしのぎを削る時代が長く続いたのが250ccだ。’70年代の世界GPでは出場車の大半をヤマハの市販レーサーTZ250が占め、そこにハーレー・ダビッドソン(イタリアのアエルマッキを買収し、同社のマシンで参戦)やカワサキのワークスマシン、モルビデリやMBAなどの小規模コンストラクター製のマシンが絡むという状況だった。

ハーレーとカワサキが撤退したあとの’82~’84年の世界GP250は、まさにプライベーター天国。’82年はフランスのジャン・ルイ・トゥールナドル、’83年はベネズエラのカルロス・ラバード、’84年はフランスのクリスチャン・サロンが、いずれも市販TZでチャンピオンを獲得。ホンダのワークスマシンを引っさげたスペンサーが参入する’85年まで、プライベーターによるし烈なチャンピオン争いが繰り広げられた。

そんな250には日本人ライダーも何人か出場し、中でも’83、’84の2シーズンにわたってオランダをベースにプライベート参戦した福田照男の活躍も忘れるわけにはいかない。

だが、こうした状況は、’85年にホンダ、’86年にヤマハが相次いでワークスマシンを投入したことで一変。以後の世界GP250はNSR対YZRの闘いとなり、それらを駆るスペンサー、ラバード、アントン・マンク、アルフォンソ・ポンスら、ワークスライダーによるタイトル争いが続いていく。

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プライベーターの楽園からワークスの激突へ。250ccにも変革の波が訪れたカワサキワークスが撤退した後の世界GP250クラスは、’70年代と同じく、市販レーサーでタイトルを狙えるクラスとして、多くのプライベーターがヤマハTZを駆って参戦(上)。しかし’ 85年にホンダがワークスマシンを投入しスペンサーがタイトルを奪取。これを見たヤマハも予定を繰り上げ、イギリスGPにワークスマシンを投入(下)。優勝したラバード(#3)は翌年のタイトルも獲得した。

’90年代には多くの日本人ライダーが進出した125にも、’80年代はまだ日本人や日本製マシンの姿はほとんどなく、欧州のコンストラクターが作った2スト2気筒マシン(ホンダの市販レーサーRS125は単気筒であり、世界GPへの参戦は想定していなかった)によるレースが続いていた。

50ccやサイドカークラスも同様で、大メーカーのレース活動とは無縁の、小コンストラクターやプライベートチューナーが作品を走らせ、腕を競う、古き良き時代のグランプリを彷彿とさせる、のどかな時代ではあった。

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