250ccと400ccがあふれていた日本!!バイク全盛期’80年代回想コラム・バイクと文化編

掲載日:2018年05月02日 トピックス    

文/栗栖国安  写真/ロードライダー編集部
記事提供/バイクブロス編集部
※この記事は『バイクブロス2018』に掲載された内容を再編集したものです

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街中であれ山道であれ、日本中どこに行っても250ccや400ccを中心としたバイクがあふれ、ライダーであることが、20代を中心とした若者の、ごく普通のライフスタイルだった'80年代。その熱気に満ちた雰囲気を改めて振り返る。

車名にはRが付き、RRになり、SPへと
市販車がどんどん先鋭化した時代

1969年に発売されたホンダ・ドリームCB750FOURと、そのライバルで'73年に国内販売されたカワサキZ2(750RS)が築いた『高性能ロードスポーツ車=大排気量』という図式が支配的だったのが'70年代。それに反旗を翻し、大型車からの乗り換え需要をも含む新しいスポーツバイクのマーケットを切り拓くかに見えたのが、'78年に発売されたスズキRG250(同年発売のキャストホイール仕様車はRG250E)だった。

今やRZ250の成功の陰に隠れた存在ではあるが、来るべき時代を予感させたという意味で忘れられない存在。ある意味RZの露払い的なマシンだ。

その初代RGと異なり、RZが爆発的に売れたのは、当時としては先進的な水冷エンジンというセールスポイントを持っていたのと、同社の市販レーサーTZ250や世界GPで連覇中のケニー・ロバーツのイメージを巧みに使った広告戦略のおかげでもある。

今ならすぐさま他メーカーがライバル車を投入しそうなものだが、'80年代初頭はそうでもなく、人気や注目度という点で明らかにRZを意識したマシンと言えるのは、'82年発売のVT250Fではなかろうか。

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RZ250で活性化した250市場に向けてホンダが投入した第一弾が'82年発売のVT250F(右)、第二弾が'83年発売のMVX250Fだった。VTの方は商業的に成功を収めるが、MVXはRZの敵にはなり得ず……。NS250Rの登場を機に販売終了

そして真っ向からRZに立ち向かう強力なライバル、スズキRG250Γが出現したのは'83年。水冷エンジン、アルミフレーム、フルカウル(エンジン下半分は覆われないが、当時はそう呼ばれた)を持ち、RZより10ps大きな45psの出力と徹底した軽量化で、サーキットでも突出した性能を発揮した。

対するヤマハは、RZ250の後継機種として、YPVSとビキニカウルを装備したRZ250Rを同年に投入。翌年にはホンダからNS250R、カワサキからKR250が登場し、4メーカーのハイパー250が出揃った。

その後はRZがTZRに、NSがNSRに、RG-ΓがRGV-Γに、KR250がKR-1に発展するとともに、それらの高性能版、レース用ベースマシンなどが次々と市場投下され、レプリカブームを引き起す。

こうした、性能的にも注目度でも飛び抜けた存在のマシンに限らず、4スト単気筒/2気筒のツーリングモデルや、クォーターマルチと呼ばれた4気筒のスポーツモデル、さらにはオフ車も合わせると、ひとつのメーカーが250だけで数機種から10機種近くをラインアップしていたという、今では夢のような状況が続いたのだ。

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高性能化は規制との闘いでもあった。当初はオイルクーラーやフルカウルさえ認可されなかった中、スズキは'83年にアルミフレームのRG250Γ、翌年にフルカウルのGSX-R(400)を開発し、規制に風穴を開けていった。これを機に、時代はレーサーレプリカブームへとなだれ込んだのだ

その250と並び、'80年代のバイクブームのもう一方の牽引力となったのが、400ccクラスだ。'75年の中型限定免許制度の導入で、教習所で取れる二輪免許で運転できる最大排気量が400ccとなった(以前は排気量無制限だった)ため、それに合わせて、どのメーカーも高性能で魅力的な400ccマシンを開発していった。

先の2スト2気筒の250とは異なり、こちらのアイコンは4スト4気筒。Z400FXが先鞭をつけ、XJ400、GSX400F、そしてCBX400Fと、'81年には4メーカーの4気筒車が揃い、250同様に年を追うごとに、より高性能に、よりレーシーな方向へと発展を続ける。

免許制度のおかげで250よりも市場規模の大きかった400には、250を上まわる数のモデルがひしめき合い、2スト250の拡大版から4ストの単気筒/2気筒、スポーツモデルにツーリングモデル、アメリカンタイプはもちろん、スクランブラー的なモデルまで販売されていた。

250と400、そして実質的に国内最大排気量だった750以外の80や125、200、350、500ccといった中間排気量車にも、キラリと光る名車があったもの忘れるわけにはいかない。

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欧州向けに開発されたZ500の排気量を縮小して'79年に国内販売されたのがカワサキZ400FXだった。中型免許で乗れる当時唯一の4気筒車として大人気を博し、'80年発売のヤマハXJ400とスズキGSX400F、'81年発売のホンダCBX400Fへと続く、一連の400cc4気筒マシン市場を切り拓いた名車だ

一方で当時の世相に目を向けると、これまた今では考えられない、バイクブームの渦中にあった'80年代ならではのエピソードがたくさんある。

この記事のタイトル写真のような、トップライダーを使ったポスターはもちろん、レースでの優勝やチャンピオン獲得といった市販車の広告ではないポスターが、日ごろは自転車とスクーターしか売らないような販売店の店頭にも掲げられているなど当たり前。スクーターといえば、ロードパル? パッソル? タクトという原付の販売合戦と、そこから巻き起こったHY戦争と呼ばれた乱売も'80年代の出来事だった。

HY戦争は'79年にヤマハがホンダに対して宣戦布告したのがきっかけと言われるが、確かに、当時のヤマハの地方拠点などには「トップを奪う!」と大書きした貼り紙があったりした。

だが、結局はシェア争いであり、出荷台数を増やす乱売の末に、メーカーも販売店も疲弊した。ヒドいときは、もうすでに在庫車で埋まった販売店に、さらに台数を押しつけるべく、貸し倉庫を手配して新車のスクーターを押し込む営業マンまで現われたほどだ。

そんなことをすれば、今ならメーカー自体の存続が危ぶまれるところだが、そうならなかったのもまた'80年代ならでは。原付市場こそ縮小したものの、スポーツバイクに関しては、作れば売れる、新型を出せばヒットするといった状況が'80年代を通じて続いた。

話を世相に戻すと、'82年末に公開された角川映画『汚れた英雄』の主人公を自身になぞらえ、実生活はともかく、気分は北野晶夫なライダーは、日本中にたくさんいた。会社には内緒、あるいは大らかな当時のことだから会社公認の下、バイク通勤をし、終業後はロッカーに吊るした革ツナギに着替えて峠に直行。彼らが走りに行く先には、平日にもかかわらず、ただ見物するだけのギャラリーが待ち構えていたりもした。

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燃えあがりつつあったレースブームの火に油を注ぐように、'82年末に公開された角川映画『汚れた英雄』。主人公のレースシーンでのスタント役を担当した平 忠彦は人気が沸騰し、後に資生堂が販売した男性用化粧品、テック21のテレビCMに起用されるなど、ライダーの枠を超えたスターとして活躍した

この原稿を書くために当時の資料を漁って驚いたのは、バイク雑誌の投稿欄だ。バイクは出てこないが、'87年に公開されてこちらもヒットした映画「私をスキーに連れてって」よろしく「ツーリングに連れて行ってください」や「バイクの後ろに乗せてください」といった女子高生を始めとする若い女性からの投稿が、本名はもちろん、住所や電話番号付きで何件も掲載されていたのだ。これなど、今では絶対あり得ない話だ。

バイクに乗り、ツーリングに出かけ、ときにはサーキットを走る。そうしたライフスタルが広く社会に認められ、また、それがカッコよく、まぶしく見えた時代……。'80年代を知る世代の一員として、ただ懐かしがるだけでなく、みんなで末永く語り継いでいきたいものである。

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